そこで舞台上においては、真実よりもある場合には誇張も必要であり、また省略することも必要となる。舞台の上を走るのに、われわれが実際に地上を走ると同じようにランニングを行ったのでは、走る感じが出ない。
 それと同じ心で、料理屋の料理は、家庭料理を美化し、定型化して、舞台にかけるところの、料理における芝居なのである。ただし、これが名優の演技にならねばいかんのだ。われわれが料理屋の料理をいかんというのは、その料理人が名優でないからである。
 これを書についていってみるならば、書は日常の用に立てる手紙とか日記とか、ひとに書のうまさを見せるのが目的で書いたものでないのが本当の書である。書における実人生なのである。だから書としては、これがいちばん純真な美的価値を有するわけである。しかし、これを軸にして床の間に掛けて楽しむとか、額に入れて欄間の飾りにするとかするには、よほどの人でないかぎりどうもそれではよくない。ここにおいて書にもまた、これを美化し、定型化するような芝居が演ぜられる。書家の書がすなわちこれである。
 だが、多くの場合もこの書なるものが、料理人と同じく名優の名技ではない。だから、その書が名技として尊敬の的《まと》にはならない。要は書家の書だからいけないのではない。大根役者の芝居だからいけないのだ。
 しかし、われわれの生活には芝居をしなければならない場合は非常に多い。広く世人と交際する公的生活においては、いわずもがなのことではあるが、芝居の必要のないと思われる私生活にあっても、芝居気がまったくないかというとそうではない。
 例えば親子の間柄もそうである。父は子に対して友人と対する時とはおのずから異なった態度をもってせねばならぬ。すなわち、父親らしい振舞いを必要とする。赤裸々な人間として、わが子に対することはできない。
 まったく芝居を必要としない社会というものは、よほど山奥の集落にでも行かねば存在しないと思われる。しからば、この芝居は芝居だからいけないかというとそうではない。ただそれがまずい芝居であっては、父として子を訓育することも、子供によい影響を与えることもできない。ましてわが子に対し、友人に対すると同じような、間違った芝居をするならば、それは、なおさらよろしくあるまい。わが子に対しても、われわれは親として名優となることが必要だということがわかる。
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