てはっきりした見解を述べているものがいないということだ。
いうまでもなく、食器なくして料理は成立しない。太古は食べ物を柏《かしわ》の葉に載せて食ったということであるが、すでに柏の葉に載せたことが食器の必要を如実に物語っている。早い話がカレーライスという料理を新聞紙の上に載せて出されたら、おそらく誰も食おうとするものはあるまい。それはなぜであるか、いうまでもなく、新聞紙の上に載せられたカレーライスがいかにも醜悪なものに思われ、嫌らしい連想などが浮かぶからである。カレーライスそのものだけなら、これをきれいな皿に盛ろうと、新聞紙の上に載せようとも変わらないはずである。それにも拘《かかわ》らず、美しい皿に盛ったカレーライスは、これを喜んで食べ、新聞紙に載せられたカレーライスは見るだに悪寒を覚えて眉《まゆ》をひそめるのは、料理において食器がいかに重要な役目をするかを物語ってあまりあるといえるであろう。
しかして、こういう感覚は一応は誰でも持っているのだが、美食家とか食通とかいうものになればなるほど、それが鋭くなる。ほんとうに物の味が分ってくればくるほど料理にやかましくなり、料理にやかましくな
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