ればなるほど、料理を盛るについてもやかましくなる。これはまた当然である。
 しかるに、現代多くの専門家が料理を云々《うんぬん》していながら、その食器について顧みるところがないのは、彼らが料理について見識がないか、ほんとうに料理というものが分っていないか、そのいずれかであろう。
 以上のことが分ると、それに従って次々にいろいろなことが分ってくる。料理をするものの立場からいえば、自分の料理はこういう食器に盛りたいとか、こういう食器を使う場合には、料理をこういうふうにせねばならぬとか、いわば、器を含めて全体としての料理を考えるから見識が広く高くなってくる。
 また、もっと別な方面から考えてみると、よい食器のある時代は、よい料理のあった時代、料理の進んでいた時代であるということができる。その意味では、現代は料理の進んだ時代ではない。よい食器が生まれていないからである。
 中国料理は世界一だというようなことをよく半可通のひとがいっている。また、なにも知らぬひとはだいたいそれを信用して、なるほど、そうだろうぐらいに考えている。けれど、わたしの見解をもってすれば、中国料理が真に世界一を誇り得たのは明代であって、今日でないというのは、これも中国の食器をみると分る。中国において食器が芸術的に最も発達したのは古染付にしても、赤絵にしても明代であって、清になると、すでに素質が低落している。現代に至っては論外である。むべなるかな、今日私たちが中国の料理を味わって感心するものはほとんどない。
 さらに食器をみると、その料理の内容までほぼ推察がつく。中国食器の絢爛《けんらん》たる色彩と外観の偉容と、西洋食器の白色一点ばりの清浄主義と、日本食器の内容的な雅味とは、それぞれの料理の特徴を示すばかりでなく、お国ぶりまでも窺わせてくれる。
 このように、いかなる方面からみても、料理と食器とは相離れることのできない、いわば夫婦のごとき密接な関係がある。料理を舌の先に感ずる味だけとみるのは、まだ本当の料理が分らないからである。うまく物を食おうとすれば、料理に伴って、それに連れ添う食器を選ばねばならぬ。もちろん、ひいては料理は食う座敷も、床の間の飾りもすべてがこれに伴ってくるが、そのもっとも密接なる食器について意を用いることが、まず、今日の料理家に望まねばならぬ第一項であろう。
 よい料理とはなにか、よい食
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