食って、結構美味しく食えるという事情がある。また、日本では、料理をする場合に実によくゴミを出す。魚一つ切っても頭を捨て、尾を捨て、はらわたを捨て、少し極端に云《い》えば大部分を捨ててしまう。それは一つには料理法を知らないからではあるが、料理法を知らなくてもよいほど、材料が豊富であるという点に起因していると思う。
 中国料理にともすればグロテスクな食品が取り入れられるのも、この材料の少ないという点から来たものではなかろうか。例えばひきがえる[#「ひきがえる」に傍点]の如《ごと》きがそれだ。なるほど、あれはアメリカの食用がえるなどよりはうまいが、少し苦味がある。ああいうものを食うというのも、食品の不足からおのずとそういうものに手を出すようになったからと思われる。
 京都に料理が発達したというのも、ちょうど中国料理の発達に似たものがある。まず山の中にあって食品に恵まれていない。しかも、昔から千年来の皇居があり、著名な寺の多くある文化の中心地である。そこで勢い料理法というものが発達したものとみられるんだね。
 ところでそばを味わうので大切なことは、少しずつつるっつるっとやるんでなしに一度にたく
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