いっています。

よい料理には「味の素」は不可
「味の素」は近来非常に宣伝されておりますが、私は「味の素」の味は気に入らない。料理人の傍《かたわ》らに置けば、不精《ぶしょう》から、どうしても過度に使うというようになってしまいますから、その味に災いされます。私どもは「味の素」をぜんぜん料理場に置かぬことにしています。「味の素」も使い方でお惣菜《そうざい》的料理に適する場合もあるでしょうが、そういうことは上等の料理の場合ではありません。今のところ、とにかく高級を意味する料理のためには、なるたけ「味の素」は使わないのがよいと思います。なんとしても上等の料理、最高の料理には、私の経験上「味の素」は味が低く、かつ、味が一定していけないと思います。こぶなりかつおぶしを自分の加減で調味するのがよいと思います。

蔬菜《そさい》は新鮮入手に努力すべし
 野菜料理は相当の年配の方に好まれます。また、健康上からも、たいへんによろしいのであります。私は鎌倉で陶器をやっていますから、そこにわずかの畑を持っていまして、だいこんでも里芋《さといも》でもねぎでも、採《と》りたてのものばかりしか食べていませんが、この採りたてのものは、質が違うと思われるほど美味《うま》いものです。採ってから少しでも時間が経《た》つと、どうも問題にならぬくらい味が落ちます。東京ではそういうことはできませんが、鎌倉ですと、お客をしましても、膳《ぜん》を出す三十分なり四十分なり前でなければ、畑から採らせないのであります。
 里芋でありますなら、掘る洗う煮るという具合に続けますと、その芋が少々性のよくないものでも、相当に食べられる。性がよければ、この上、美味いことはないのであります。今は松茸《まつたけ》の時節でありますが、松茸にしましても、この頃の山へ行って、採った場所ですぐさま食べるのが一番美味いのです。京都あたりから、たくさん送られて来るのですが、途中|籠《かご》の中で変育して、届いたときは発送時より大きく育っています。栄養を摂取しなくて育つのですから、痩《や》せるに決っています。従って変味します。筍《たけのこ》にしましても、送ったときに五寸のものが、届いたときは六寸になっているという現象があります。これは野菜が生きたようで、実は死味に近づきつつある証拠です。ですから、ほんとうに生きているものを食べる――という心がけが美食には必要となります。生きた野菜でなければ、真の美味は摂取できないわけです。
 さかなや野菜の生きているか死んでいるかを見分けるには、さかなでは容易に分っても、野菜では簡単に判《わか》りません。だから野菜では採りたてがよい、採りたてに近いほどよいとしてあります。たいなど大きいものになりますと、一日二日おいた方が、かえって味がよいこともありますが、野菜は採りましてからも、ある期間、不自然な発育をしていますから、その処理に工夫を要します。例えば、ねぎにしますなら、青いところを摘んでしまって、白根だけにしておきます。それでないと、青い部分を育てて白根の養分をなくしますから、そうしないようにする。また、だいこんでありましたら、葉をつけたままだと、葉を育てるためにだいこんの方から養分がとられますから、葉を切り放して、葉はすぐ糠味噌《ぬかみそ》に入れるなどした方がよろしいのです。
 野菜を扱うのには、このようなちょっとしたコツがあると思います。けれども、なんといっても、採《と》りたての野菜を、すぐさま使うよりよいことはないのであります。

魚も鳥も大は、ある時を経てよし、小は、新鮮にかぎると知ること
 魚とか鳥とかの大きいものは、相当時間が経過して味のよくなるものがあります。けれども小さいもの、鳥でいえば、鶫《つぐみ》とか鶉《うずら》とか雀《すずめ》とか、魚でなら、いわしとかあじとかいいますものは、獲《と》りたて、または締めたてでなくては美味《うま》くありません。
 大きいものならば、海から山から得て、五日あるいは三日を経過して、かえって味がよいものがあります。

生きた食器、死んだ食器
 そこで食器のことになりますが、せっかく骨折ってつくった料理も、それを盛る器が死んだものでは、まったくどうにもなりません。料理がいくらよくても、容器が変な容器では、快感を得ることができません。私は生きた食器、死んだ食器ということをいっておりますが、料理を盛って、生きた感じがしますのと、なにもかも殺してしまう食器とがあります。茶人という者になりますと、向付《むこうづけ》に五千円、なにに五百円という具合に、よい器を欲します。それは生きた食器だからであります。食器が下《くだ》らぬものでは料理まで生きませんから、料理と食器とが一致し、調和するように心がけるのであります。
 その食器を選ぶということも、ただやかましくいうだけのことではなく、食器そのものを愛し、取り扱うことが楽しみであり、その食器をいたわりいたわり扱うというところに、料理との不二《ふに》の契《ちぎ》りが結ばれるのです。食器が楽しいものになれば、必然、料理が楽しいものになるのです。それはあたかも、車の両輪のようなものでありましょう。

結局、料理は好きでつくる以上の名法はない
 実際、料理といいますのは、好きでつくるというのでなくてはなりません。それが趣味であります。ただ知って美味くつくるという知識だけではなく、温かい愛情で楽しみながらやるという気持であります。だから、食器のことなども心がけることによって、美術の趣味を深くすることができます。そうしてだんだんと調子の高いものを求めることです。みなさんが帝展をごらんになれば、いいお気持になられましょう。それは美術に対する要求が満足するからです。ところが、さらに高くなると、博物館へ行くということになります。食器の美的鑑賞も向上してくるのでありますし、食物の上にも美をそういうふうに表わすようになります。すなわち、切り方だとか、盛り方だとか、色だとか、いろいろなことに心が届くようになるのであります。結局、料理というものは、好きでやるのでなくてはだめだということになるのであります。主人がやかましいから一応知っておかなければ、というような了見《りょうけん》では高《たか》の知れたものであります。好きでおもしろく、楽しんで料理をおやりになられるまで進まれるように希望いたします。
 終わりに、醤油《しょうゆ》について、ひと言申し上げておきたいと存じます。濃口《こいくち》醤油ではどうもよい料理ができないのです。薄口というのがあります。これは播州竜野《ばんしゅうたつの》でできるのですが、関西では昔から使われています。東京にはこれまでありませんでした。近頃、山城屋には置いています。実際、薄口でなければ、ほんとうによい料理はできません。色はつきませんし、しかも、値段は安く、塩分が多いからよくのびて、経済からいっても大いに安いし、まったく料理には薄口がなければならないといってもよいでしょう。
 それから、刃物のことなどもお話しいたしたいのですが、時間もございませんので、簡単にいいますが、どうか刃物もよく切れるのをお使いになっていただきたい。そしてよく切れると、切るのがおもしろいから、自然、料理に興味が持てるということになるのであります。



底本:「魯山人の食卓」グルメ文庫、角川春樹事務所
   2004(平成16)年10月18日第1刷発行
   2008(平成20)年4月18日第5刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
   1993(平成5)年発行
初出:「星岡」
   1933(昭和8)年
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年1月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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