美術家ならあんなよいものを見に行かずにはおられまいと思うが、果たして見に行くかと思うと見に行かない。それはなぜかというと、彼等はこれを見てもおもしろくない。感興が湧かないからである。なぜおもしろくないかといえば、ああいう本当の美術品を鑑賞する力がない。見ても分らないからである。われわれが無理に連れて行っても分らぬものはおもしろくないのだ。美術家がすでにそうだから、その門人たちもまず見ない。自分で進んで見に来るものはともかく、先生に勧められて見に来るものなどはまずないのである。しかるにすぐその前にある帝展はどうか、その方はわんさと押しかけている。つまらぬものを見たがるものだと思うが、これは飯の種に関係するから行くのである。骨身になるはずの博物館の方へ行く美術家は実に寥々《りょうりょう》たるものがある。むしろ専門家でない愛好者が見に行っている。
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この風潮は料理界になれば一層ひどく、ほとんど始末に終えない。しかし考えれば、豈《あに》ひとり料理界のみならんや。正月にはどこの家でも花を生けるのは、いうまでもなく自然の美を取り入れ、自然の趣を取り入れることである。しかるに、現在生け花の先生をしているひとびとのあり様を見ると、これがまことにもって料理人に対していったことが、そっくりそのままに当てはめられる。その風采といい、その言葉遣いといい、誠に恐縮せざるを得ないものがある。そこでその花に対する彼女等の賞玩《しょうがん》態度も推して明らかである。花そのものの美は分っても、花の持つ自然の趣は分らない。本当に花が分ればこれをどんなものに生けるか、花を盛る器についても、相当の見識が出て来るのは当然のことであるが、あたら花をけがすような器が使われたり、さらにはなはだしきは花を眺めるのか、器を眺めるのか、どっちか分らないような、花をそっちのけにした器を平気で用いていたりする。生け花の先生には自然の趣などということは、なんの縁も関わりもないものであるらしい。
底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
2008(平成20)年4月18日第1刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
1993(平成5)年発行
初出:「星岡」
1935(昭和10)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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