心され、ついに入手されるまでになった。村人の言によれば社員ふう特派使節がわざわざ美濃|久々利《くぐり》村に足を運ばれること三度、某工人はもとより、瀬戸のT氏を煩《わずら》わすなどずいぶん大がかりの努力であった。これは今でも村の話柄としておもしろく誇張されて遺っている。
 翁は最初志野陶土発見を某工人の口から知ったとき、矢も楯もたまらなくただ陶土さえ入手せば即刻にも志野は焼成するものと早合点し、急遽《きゅうきょ》使者を山間に走らせられたのである。ところが純朴な村人の節義は存外堅いものがあって、星岡窯のAの発見と出資によって掘り下げていった洞窟《どうくつ》の陶土、……それは容易に翁の使者の命ずるまま乞《こ》うままには諾するところがなかったらしい。翁は焦慮して幾度か山中に使者を派し、村の役場員を動かし村益をもって交渉に当たらせ、ついに○○○出資を収めて希望の陶土を入手したという汗だく事件があった。
 しかも、これが星岡窯のAにも私らにも積極的にことが運ばれたのであった。それはなんのためかはいうまでもなく、最初の行きがかり上、極秘中に策を練って志野、黄瀬戸を作り上げ、某々に目に物見せてくれんとする翁の稚気に外ならなかったのである。
 しかしながら芸術の成功は是が非でも主観の信念からなる実際行為であらねばならぬに反し、翁はそもそもの最初から、その製陶態度がぜんぜん客観的であった。「指導で他人に拵えさす」これが第一客観である。「志野陶土があれば志野が再現するかに考える」これが客観である。これらは実に翁の目的をいかにしても成就せしめないゆえんであって、私らから打ち眺めるとき、ただただはがゆさを感ぜざるを得ないのである。ただし前山翁一人がその例でないことを追言する。

      (五)

 素人たるもの、ふとした趣味の軽はずみから、妙に矢も楯もたまらなくなり、資材に任せて無我夢中に築窯し、作陶の成果を空しくいたずらに楽しみ、自己に成就の用意があるなしを省みるいとまもなく窯に火を入れるなどは、有知のなすべきでないことわり[#「ことわり」に傍点]を前四回にわたって僭越とは知りながらいささか説くところであったつもりである。
 しかし、その引例が主として前山久吉翁の現業窯におよんだことは、現在、窯に火を入れている唯一の人として止むを得ざる次第であったが、それにしてもはなはだ御迷惑をかけた点は重々お断りする。
 そうはいってもずいぶんクドかったじゃないかとの誹りはあるだろう。だがそれは小生が毎度のこと魯山人はアクが強いといわれる点で、これまた今分のところ止むを得ない次第である。
 さだめし読者も前山翁も分った分った、もう分った分った、もう分ったよう……を繰り返されていたことだろう。
 魯山人のいうところ、要するに好きで窯を造る以上、自分ですべてを作ること、自作することによって意義があるというのだろう。分った。
 自家窯といえども雇傭の工人に作らしたのではお庭焼を出でないというのだね。つまり芸術にならないインチキ芸術だというのだ。分った。
 それから自作にかかるまでには鑑賞が達していなければならぬ。書が出来、画が非凡にまで進んでいなくちゃいかんというんだろ。分った。それだから伊達《だて》じゃいけない、真から底からのまこと心からの仕事でなくちゃ駄目だというんだろ、分った。
 しかも天才的な神技が入用だというんだね。分った。……
 土で出来るんじゃない、釉で出来るんじゃない、学校程度の窯業知識で出来るんじゃない、絵描き程度の画では絵付けがものをいわない。
 現在の図案家程度では図案にならない、帝展の工芸じゃしようがないというんだろ。分った分った……。
 しかしそうなると作陶資格ある者は満天下魯山人一人ということになるじゃないか、おい……冗談じゃないぜ。てな程度にまででも製陶認識を進めて貰いたいというのが私の希《ねが》いである。
 必ずしも素人、窯を築くなと一概的にいうのではない。



底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
   2008(平成20)年4月18日第1刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
   1993(平成5)年発行
初出:「星岡」
   1934(昭和9)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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