しい。私は約二年ほど前益田|鈍翁《どんのう》に面したときの直話であるが、鈍翁の言葉に、
「君、前山が来て近い中にきっと志野を焼いて持って来るって大|気焔《きえん》だったよ……」
 私はとっぴな話を聞かされていささか驚いた。そして思わず不用意にも、これに即答した。
「それは出来ませんなあ……。いかに前山さんだってまた誰だって、それは出来ません。今は、そんなものを作れる人がありませんから……ときにあるいは様子だけが志野みたいな……黄瀬戸みたいなものが出来ないともかぎりませんでしょうが、ともかく、生命力は皆無なものに違いありませんから、一見似ているにしても実際の価値上、なんの美術価値もないものにきまっております。従って問題になるものではありますまい。私は前山さんを評するわけではありませんが、もし直評を許されるならば、前山さんの今の製陶認識では失礼ながら古《いにしえ》を偲ぶに足る、それは決して出来るものではありませんでしょう」
 鈍翁は呵々大笑して……。
「そりゃそうだろうね、そうたやすくは出来るもんじゃなかろうね。時代が許さないだろうし、君の言のごとく作者がないだろう。しかし前山は大変な天狗《てんぐ》で何、そのうち志野を焼いて持ってくるというんだからおもしろいじゃないか」
 と、大笑いされた。まったく前山という人、ことを一途に単純に考えられる人らしい。
 しかし、この時の前山さんの自負する胸中を知るものは、もしかすると私一人かも知れなかった。当時翁は志野の本場|大萱《おおがや》から、その昔、志野に用いたかもしれぬと思われる陶土を手にしていられたことである。この陶土の入手に翁がいかに苦心を払われたかにはなかなかおもしろいニュースがとんだ。それは私が志野の古窯跡を星岡窯の荒川研究生によって発見し、ついでにその山間《やまあい》から陶土はもちろん、その他顔料土の材料を探査し、ようやくにしてその陶土を発見して鎌倉の星岡窯に持ち帰った直後のこと、時々星岡窯に来話する翁が雇傭の瀬戸工人某なる者、私の窯場にて瀬戸系研究に耽るAなるものと談話中、志野原土の大萱に発見されたること、星岡窯に持ち帰ったること等が話題となって明瞭し、某工人はこれを翁に忠告したものと解される節があって……。これからがまずいことに、端的な翁の性癖として、この佳報を特種扱いし、まっしぐらに土、土、土と志野陶土の入手に苦
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