もし料理人に心があったら、たとえ牛蒡の一片にしても、うまく処理して、まったく別の珍味として食べることを考えるべきだろう。残らず捨て去ってしまったり、珍味だということをなんにも知らない輩《やから》に、むしゃむしゃ食べさせてしまうのはもったいないかぎりである。甘だいの骨一つにしても、犬にやるとか、残飯を干飯《ほしいい》にするとか、方法はいくらもあろう。
料理人はせっかく手がけたものが充分食べられなかったり、手がつけられなかったりした場合は、もう一ぺんこれを生かして、自分達の味覚研究として、試食するくらいの機転がなくてはならない。経済的にいっても、もとよりの話であるが、料理人は料理で身すぎをする人間だ。いい材料を使って、手塩にかけたものが客の腹加減から用を足さないで戻ってきた場合、またもう一度これを生かす工夫に心して、自分たちの同僚のもので、試食研修してみるくらいの興味を持たなくては失格である。料理人は料理で僅少《きんしょう》な金を得る生活よりも、ひたすら料理に興味を持ち続けることの方が幸福ではなかろうか。
繁忙の時でなければ残肴の姿は見えない。残肴が姿を出すような忙しい時は、料理人は疲労した上、残肴の整理など大変だと事務的に考えがちのものだが、生かさずにはおれないという生一本の性根がほしい。好きの道だからこそ、ここが大切なのだ。心の底から料理が好きという人間なら、これくらいのことは良識、良心の両杖《りょうじょう》で実行できるものである。
残肴の活用はわたしのいささか得意とするところであるためだろう、くどくどというが、諸君の中には家庭をもったひともいる。残肴の揚げものはぜひ二、三片でもいい、家に持って帰れば、家族がどんなに喜ぶか知れない。甘だいの大きな照り焼きの残ったものなど、菜っ葉や豆腐といっしょに煮て食べるといったように、一家を楽園にする道もある。
なるほどと得心がゆけば、常に残肴の係などの責任者をつくり、真剣に与えられた材料をなんとか生かして欲しい。ものの働きがあるうちは充分働かせ、その効用をせいぜい能率的にこの世に残してゆく。料理人にかぎらず、このことは人生に処する人間の心がけでなくてはならないと思う。また、こういうところから、料理の発明も発見も生ずるのである。
底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
2008(平成20)年4月1
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