がお茶の道と心得られているのが現代茶人である。かかるが故に、お茶人の身上はこれこれとばかりなんら怪しむところなく、ただもうわけもなく喜悦し、この珍風景に縁なき徒輩たちを指しては妄りに俗物として、無風流の誹謗《ひぼう》を真向から浴びせかけるというわけで、まことに苦笑禁じ得ないものばかりである。茶界というもの紋切り型一通り覚え込むさえ三年や五年はかかるものである。しかもまだその上|幇間《ほうかん》的|駄洒落《だじゃれ》に富まざるべからざる要が加わるのである。この道、青山翁などは純に下手くそなものであった。そこへ行くと御殿山などはすこぶる堂に入り得意としたものである。茶会というもの笑話劇? 茶番狂言? 猿芝居? 漫才? なにがなにやらたわいもないことのようである。
以上のように心にもない悪口をもって現代茶人を事もなげに片づけてしまうことは、実のところ吾人のまったく忍び能わざるところであり、われながら無作法もまたはなはだしいと感じつつあるのである。かように下卑た用語によらなければ表現の方法がないというのかと、私の心は今糾弾している……が、しかしいわゆる歯に衣《きぬ》を着せず、体裁を飾るための嘘をつかず見たままの有様を率直に、明白に表現せんとするに当たっては、私のような不調法者はなんとしても、こんな乱暴な表現に陥ってしまわざるを得ないのである。今さらに一句一章を改竄《かいざん》してみたところでどうしようもないようである。
松永氏こそ身から出た錆とはいえ、図らざる災難である。筆者においても最初からこんなふうに松永氏を利用するなんという了見あってのことではなかったのであるが、物のはずみのなす業というものは仕方のないものである。まったく松永氏でなくも、これが誰であろうとたいがいは同癖を有し、人の所作業に向かっては、ちょっと自己の物識りが鼻にかかるのは常である。この場合当人は僭越などという考えは毛頭ないのである。きいたふうな口を辷《すべ》らしたなどともとより考えているのではない。それどころではなく親切の心のつもりでいっぱいなのである。
この親切者からしては、昔出来た茶碗は今も了見の持ち方一つでまた出来得るものであるかのように簡単に考えられるのである。今と昔は作人の素質が根本に違っているのだ。作人を取り巻いている社会がまったく変わっているのである。作人の生活観念が昔気質とはぜんぜん跡形もなく異なっているのである。今さらちょっとした思いつきぐらいで急に改変出来るものではないのである。付焼刃の効果は望み難いのである。これが少しも親切者に分っていないところから、図らず松永氏の失言も生まれれば、勘違いも起こってくるのである。蓋し人生未熟の致すところから生まれる親切かも知れない。その未熟者が、いたずらに古来伝えられるところの利休の十職というものをもって、今の十職と比し、とやかく差し出口することは、身のほど知らずの識見といえばいえるのである。あえて十職にかぎらず、何職人であろうとも二百年も三百年も経過した昔に遡《さかのぼ》り、腕が違うの、心得が不純だの、情熱が足りないの、魂が入っていないのといわれてみたとて、いわれる方の今の作人では一体全体なんのことやら皆目掴みようも判じようもなく、ただ相手の顔を打ち眺めている以外挨拶のしようにも困るわけであろう。
それを少しも知らない親切者は、ただもう今の作人と作品を息はずませて、もどかしがっているなどは、これまた第三者から見てはナンセンスであって、もともと中途半端な職人をいよいよ中途半端に拵え上げてしまうのが落ちである。いらぬお世話といえばこれくらいいらぬお世話はないかも知れない。この節の語でいえば、干渉する資格なき者の不当干渉である。干渉の効果に深く考えおよばない不当干渉である。見通しの明白でない干渉、相手の器量に無頓着な干渉、まったく閑人《ひまじん》にかかっちゃかなわない……と、いいたいところである。今の陶器職人なんて筆者の口からきっぱり決めてかかることは、いささかはばかり多いが、実はまことにたわいもない存在なのである。名茶碗の見どころ、約束など講釈してみたところで、職人の実生活となんのかかわりもないことなのである。釜師、庭師、竹切りと、次々親切者はそれぞれの講釈はしてみたかろうが、所詮かいないことである。それこそ火を見るより明らかといえよう。野暮なおせっかいと心ある者は失笑するばかりである。
茶を弁えたる者からいえば、今の茶碗では茶が飲めないと歎《なげ》く……が、それは仕方のないことなのである。あえて茶碗にかぎるのではない。なにからなにまでみなその類ではないか、みじめなものばかりの現世である。なまなか昔を知ったからとて、今に望むのはまったく無理な注文である。日本中探し廻ったとて昔三百年前に見たような茶碗の作人は一人もいないのである。豊太閤が大茶会をやったような時代の空気は今の社会には求められないのである。昔の物は昔の空気が生んだのだ。昔の社会がそうさせたのだと観念すべきではないか。醜い茶碗以外になにも生まれぬ今日の社会は、社会そのものが醜いことになっているのだ。その醜い社会でなんで美しい茶碗が生まれ出よう。それを付焼刃してでもと、無理注文いう茶家の指導で茶碗が生まれるなど考えることはこの上もない向こう見ずである。もし茶家の指導で茶碗が生まれるとすれば、茶の中に代々育つ京の楽《らく》家は、代々茶碗を生んでいなければならない理屈になる。一人ぐらいから以後は、吾人のもって喜ぶに足るような茶碗は生まれていないではないか。吉左衛門《きちざえもん》どころではない不吉左衛門ばかり続いているのはどうしたことか。茶の中に代々育っている茶碗の家元にして、だんだんとその作格の社会風潮とともに劣ってゆくことはいかんとも致し方のない現実であって、例外の天才を迎えないかぎりどうしようもないことなのである。徳川末期に良寛和尚が生まれたような奇跡の事象が生ぜぬかぎり、今を昔に返すことはむずかしい。
かつて御殿山氏は、自邸に窯を築き陶人を招き、所蔵の名器を展示し、数年に渉り風雅陶の再現を試みたのであったが、吾人の見るところではぜんぜん失敗に終わってしまったのである。これは鈍翁の考え方に最初から真実が欠けており、従って不純に出発しており、所詮浅薄の誹りを免がれない挙措であったのである。かような次第にして、そこに芸術の生まれようはずのないことは、論議の余地がないのである。況や、陶工を駆使して大業を成しとげんとなすがごときは、滑稽といわざるを得ない。このような失態を目前に見ながら、またぞろ人もあろうに、御殿山氏の陶工を招いて、青山氏が自邸に築窯を試みたということ、物の理解のない仕打ちもここまで来てはなんと評する言葉もない始末である。両者とも数多《あまた》美術品は蒐《あつ》めてみても、美の魂とかかわりなくつき合ってきた者というものは、真にみじめなもので、御殿山氏といい、青山翁といい、俺が俺がでうるさいまでの指導をやってみたことであろうが、なにが出来るものではなかったのである。
その次に剽軽《ひょうきん》者として、両者の失敗をつぶさに見て取っているにもかかわらず、しからば乃公《だいこう》がと、またまた現われ出て来たのは久吉翁である。もともとこの人土俵の外に投げ出されたとて敗《ま》けたとはいわぬという日下開山、これが名越の自邸に築窯したのである。仁清を再現さそう、志野を作りたい、井戸茶碗も作ろう、望むところはすこぶる高い。しかし、ために京から招いたのが、今様染付屋さんで茶のありようがない。まず第一回の失敗を経験し、こんどこそとばかり再び招きよせたのは瀬戸の職工、掃除もすれば台所の走り使いもするという調法な工人、これをつかまえて仁清を作れ、志野を作れ、井戸をと……職人は拙くも俺が指導して出来ないことがあるはずはない、昔遠州だってみな人を指導して作ったものだ……大変な大気焔をもっていわゆる指導に当たったのはいうまでもない。が出来たものは猫の飯茶碗のみが山と重ねられたまでであった。世間に合わす顔がなく憤死したわけでもなかろうが、七、八年続いた後、彼は他界してしまった。力のない職人、芸術の天分を有さない作人、美に関心なき工人、個性のない人間、豊かさを持ち合わさない貧しい質の持主、これらをとらえて稀に存在する名品に相似たものを再現さしてみんと、これに野心を持つことほど愚かしいことはまたとあるまい。
過去においてなされた名品というものは、たまたまあったところの天才作家によって作られたものである。今一つは時代の産物である。世界いずれの国にあっても、時代時代のそれぞれ時代にふさわしい物を生んで遺しているであろう。三百年前は三百年前、五百年前は五百年前と、それぞれその時代にあらざれば生まれ得ざるものを遺している。千年前ともなれば、いよいよすばらしい美術を生んでいるのである。
かく観じ来るとき、作品の美、作品の価値は時代と人で出来ている。優れた名人なしに優れたものは生まれ出ないのだとはっきりいい得られるであろう。しかして、優れた時代が優れた人間を生んだのであると断言し得られるであろう。優れた時代なしに、優れた作人なしに、優れた作品は生まれ出ないであろう。芸術は科学ではない。科学盛んにして芸術衰うというのが今日の時代である。
底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
2008(平成20)年4月18日第1刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
1993(平成5)年発行
初出:「陶磁味」
1947(昭和22)年〜1948(昭和23)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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