れ出て来たのは久吉翁である。もともとこの人土俵の外に投げ出されたとて敗《ま》けたとはいわぬという日下開山、これが名越の自邸に築窯したのである。仁清を再現さそう、志野を作りたい、井戸茶碗も作ろう、望むところはすこぶる高い。しかし、ために京から招いたのが、今様染付屋さんで茶のありようがない。まず第一回の失敗を経験し、こんどこそとばかり再び招きよせたのは瀬戸の職工、掃除もすれば台所の走り使いもするという調法な工人、これをつかまえて仁清を作れ、志野を作れ、井戸をと……職人は拙くも俺が指導して出来ないことがあるはずはない、昔遠州だってみな人を指導して作ったものだ……大変な大気焔をもっていわゆる指導に当たったのはいうまでもない。が出来たものは猫の飯茶碗のみが山と重ねられたまでであった。世間に合わす顔がなく憤死したわけでもなかろうが、七、八年続いた後、彼は他界してしまった。力のない職人、芸術の天分を有さない作人、美に関心なき工人、個性のない人間、豊かさを持ち合わさない貧しい質の持主、これらをとらえて稀に存在する名品に相似たものを再現さしてみんと、これに野心を持つことほど愚かしいことはまたとあるまい。
過去においてなされた名品というものは、たまたまあったところの天才作家によって作られたものである。今一つは時代の産物である。世界いずれの国にあっても、時代時代のそれぞれ時代にふさわしい物を生んで遺しているであろう。三百年前は三百年前、五百年前は五百年前と、それぞれその時代にあらざれば生まれ得ざるものを遺している。千年前ともなれば、いよいよすばらしい美術を生んでいるのである。
かく観じ来るとき、作品の美、作品の価値は時代と人で出来ている。優れた名人なしに優れたものは生まれ出ないのだとはっきりいい得られるであろう。しかして、優れた時代が優れた人間を生んだのであると断言し得られるであろう。優れた時代なしに、優れた作人なしに、優れた作品は生まれ出ないであろう。芸術は科学ではない。科学盛んにして芸術衰うというのが今日の時代である。
底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
2008(平成20)年4月18日第1刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
1993(平成5)年発行
初出:「陶磁味」
1947(昭和22)年〜1948(昭和23)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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