画の美も彫刻、建築、庭園等美術の美に於てなんらかわるものでないということでした。ですから陶器作家は仁清のように純日本的創意のデザインが生まれ、轆轤《ろくろ》も、絵も、書も、釉薬《ゆうやく》の研究も人一倍優れた素質を持つものでなければ名を成さないということです。乾山のように光琳にも優る絵画が描け、能筆であり、仁清とは又別風の日本趣味的デザインを創作し、胸のすくような作品を種々遺しております。そしてその絵画だけを取り挙げてみても実に大した力です。
木米は申すまでもなく、その絵画が十万金などいう相場をしております。
以上三人が三人共、単にその人々の絵の力の一面を見ただけでも実に立派なものです。そんな立派な絵を描く人が陶器を作るのですから、その陶器も立派なものが出来るのは当然であります。それを絵も碌に描けない、字も書けない、古書画の賞翫も出来ない、これで陶器を作ってみたところが、児戯以上の何物が生まれましょう。
現代の陶器が情けない状態の下に作られているというのはこのことです。
私は別に陶器作家を以て世に名を成すのが目的ではありませんから、現代作家を凌駕《りょうが》し排撃して、その栄冠を自己一人にかち得ようとするようなケチな了見を有《も》っているものではありません。
私は今のところごらんの程度にしか絵も書も出来ませず、なにほどの者でもありませんが、幸い絵が好き、書が好き、篆刻《てんこく》は固より古書画、骨董等、洋の東西を問わず古今に偏せず良いものを良しとなす貧弱ではありますが、好事家趣味家の一人だと思っているものです。
こういう立場から遠慮なく申せば、現代陶工の所作にあきたらないものがありまして、先《ま》ず隗《かい》より始めよという訳で研究を進めている訳であります。況や私は食道楽、即《すなわ》ち美食研究という一事業がありますために、尚更食物の着物を攻究する責任がありますので、一層作陶に努力している次第です。
どうか世間の多くの作陶家各位も商売敵のように思わないで、また邪魔な存在であるように考えられないで、胸襟を披《ひら》かれて同好同職の一人としてご交遊を願いたいと思うのです。
丁度今回大阪でも近作陶鉢の会を催し、展観することになりましたから、具《つぶ》さにご覧を願いましてお心付きの点を披瀝《ひれき》して頂きたいと思うのであります。絵でも、陶器でも、その他いか
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