ぜんまいのうまさ、そばやそうめんのうまさ、すっぽんや山椒魚のうまさ、若狭の一《ひ》と塩、石狩の新巻、あるいは燕巣《えんそう》、あるいは銀耳、鵞鳥《がちょう》の肝、キャビア、まあそんなもののうまさに似た程度のうまさであるならば、わたしはあえてがたがたするひとびとにわざわざ笞《むち》打ってまでふぐの提灯《ちょうちん》持ちなんかしやしない。ふぐのうまさというものは実際絶対的のものだ。ふぐの代用になる美食はわたしの知るかぎりこの世の中にはない。
 わたしはひとがなんと思おうとかまわぬ気で告白するが、今日わたしほど美食に体験を持っている人間は世間にほとんどない。朝から晩まで、何十年来片時も欠かさず美食の実験に浸っている。まったくわたしのようなものはまずないと信じられる。この点では僭越《せんえつ》ながら世上広しといえども、自分は美食家として唯一とはいわないが稀有《けう》の存在であると信じている。もとよりそれが善事とも悪事とも思わないこと、もちろんだ。
 偉いこととも思わねば、馬鹿な所業だとも思わぬ。ただそういうふうに生まれ合わしてきただけだと思っているまでではあるが。とにかく、誰がなんといっても美食没頭の体験においては人後に落ちない自信を有している。従って、あらゆる美食を尽くしていると告白するに躊躇《ちゅうちょ》しない。この日夜飽くなき美食何十年の実際生活を基本として至公至平に判断するとき、ふぐは絶味も絶味、他の何物にも処《ところ》を異にすると断言してはばからないのである。
 由来毒をもって鳴るこのふぐなるものも料理に法を得ればなんら危惧《きぐ》なくして、口福を満たされることは前申すとおりだ。しかも、このごろのように下関から飛行機そのほかで自由に取り寄せられ、あるいは下関そのままのふぐ料理屋が東京に少なからず散在する際だから、この美食恵沢に未だ出合わない薄幸者は一生の不覚を悔に残さぬよう、翻然なにをおいてもまずふぐ料理の美味を試むべきである。そして、その飽喫から得た自覚を振りかざして初めて美食美味を語るべきだ。
 下関人の話によれば下関、馬関《ばかん》、広島、別府方面におけるふぐの商い高は年々六十万円を下らないと誇る。これを話半分にして三十万円のふぐが年々ひとの口に入るわけだ。
 それが一人前最高の五円当たりにして六万人分であるから一人前一円くらいから商う料理店などを加えて口数
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