を持たねばならぬはずの「味」は、終《つい》に発見し得なかった。味のことばかりではない。まず見る目を喜ばせてくれる「料理の美」がまったく除去されていて、まことに寂しいかぎりであった。
 アメリカのように新しい国ではぜひもないが、仏・伊のごとき料理国がこれはなんとしたことだと驚くほど意外に感じたのである。しかし、なにかと飾り立てているようなものもないではないが、それが総じて稚拙であり、いわゆる児戯に等しいものであった。まことに意外であった。
「味覚」の点を多くのひとびとにあげてみても、一級二級三級と、ざっと、十級くらいまでの開きがあろう。うまいとかまずいとかいっても、そのひとびとによって大変な段階がある。甲が盛んにうまいうまいと悦に入っていても、乙はノーを叫ぶ場合も多々ある。きびしく吟味する者と、さほどにきびしくない者との相違であろう。その道の苦労の積み方にもあって、一概にいうことはできない。
 さて、フランス料理だが、世評がむやみと礼賛するほどの物でないというには、やはり、それだけのわけがある。では、その種明しをするとしよう。総じて何事も根本さえ飲み込むことができれば、枝葉の末端に道を求
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