。漬けものでもあれば充分である。だから、いくらうまいといっても、料理の後では邪魔になる。
ところが、一般の家庭はもちろんのこと、多数の料理屋がこのごはんというものについて、とても注意が足りない。
料理屋がそうだから、料理人はみなそうである。料理長というものは板前といって、俎板《まないた》の前に坐《すわ》って刺身ばかり作っている。本当の料理人ならば、仮に自分で飯を炊かなくとも、飯がうまく炊けたかどうかということについて、相当気になるはずである。なぜなら、せっかくいい料理を作っても締めくくりに出る飯がだめだったら、すべてがぶちこわしになってしまうからである。
ところが、料理屋というものの多くは、酒飲み本位に工夫されているために、たいていの料理人は自分の受け持ちの料理さえ出してしまうと、後の飯がどうであろうと、一切お構いなしで帰ってしまう。それでは料理人としての資格はゼロに等しいといわれても、彼らは一向に頓着《とんちゃく》しない。理想がないからだ。
一般に飯炊きというと、料理人ではなく、雑用人として、一段と下った仕事として扱い、ろくな給料も出していないが、ずいぶん間違った話である。
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