向いた。すつくと立ち上つて彼はどなつた。『おい君は何故そうじろじろと俺の顔ばかり見るんだい。』『うん、どうもすまなかつた。』我にかへつて斯う云ふと彼は再び坐した。『人にじろ/\見られるのは兎に角気持が善くないからな、君だつてさうだらう。』斯う云つて彼はビールの大杯をぐつと呑み乾して、輝かしい眼で自分を見た。『さうだつた、僕はだが君の容貌に或興味を感じた物だから。』『有難くないね、俺の顔がどうにしろ君の知つた事ではあるまいではないか。』彼は不機嫌な様子であつた。『まあ怒るな仲直りに呑まう。』かくして彼金子鋭吉と自分とは相知るに至つたのである。
 彼は交れば交る程奇異な人物であつた。相当の資産があり父母兄弟なく独りぼつちで居る。学校は種々這入つたが一も満足に終へなかつた。それ等の経歴は話す事を厭がつて善く解らないが要するに彼は一詩人となつた。彼はまつたく秘密主義で自分の家へ人の来る事を大変厭がるから如何なる事をしつゝあるのか全然不明であるが、彼は常に街上を歩いて居る。常に酒店《バー》や料理屋に姿を見せる。さうかと思ふと二三箇月も行方不明になる。正体が知れぬ。自分は最も彼と親密にし彼もまた自分を信じて居たが、それでも要するにえたいの知れない変物とよりほか解らなかつた。

 (二)

 かゝる事を思ひつゝいつしか九段坂の上に立つた。眺むれば夜の都は脚下に展開して居る。神保町の燈火が闇の中から溢れ輝いて、まるで鉱石の中からダイヤモンドが露出した様である。自分は坂の上下を見廻はした。金子が多分此処で自分を待ち合はして居るんだらうと思つたのである。が誰も其らしい物は見えなかつた。大村銅像の方をも捜して見たが人一人居ぬ。約三十分程九段坂の上に居たが遂に彼の家に行つて見る事にした。彼の家は富坂の近くにある。小さいが美麗な住居である。家の前へ来ると警官が出入りして居る。驚ろいて聞くと金子は自殺したのだと云ふ。すぐ飛び込んで見ると六畳の室に金子が友人二三人と警察の人々とに囲まれて横たはつて居た。火箸で心臓を突刺して死んだのである。二三度突き直した痕跡がある。其顔は紫白色を呈して居るがさながら眠れる様である。医師は泥酔で精神錯乱の結果だらうとした。自殺者の身体には甚だしい酒精の香があつた。時刻は今し方通行者が苦痛の唸声を聞きつけてそれから騒ぎになつたのだ。
 何の遺書もなかつた。が自分には
前へ 次へ
全10ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
村山 槐多 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング