、さ、まだ七、八町の余《よ》もごぜえましょうか?」
熊笹がいよいよ多くなる。ますます黄櫨の木が殖《ふ》えてくる。もはや人はほとんど通らぬとみえて、六蔵や、伊手市氏、牧田氏、藤五郎氏たちが先に立って踏み分けてくれるからついて行けるが、私ひとりだったら、とても行き着くことは思いも寄らなかったろう。
無言でしばらくガサゴソと、熊笹を分ける。蛍草《ほたるぐさ》や竜胆《りんどう》風の花が、熊笹のあちらこちらに見える。野生の石楠花《しゃくなげ》が処々に咲いている。
この景色を最も好んでいたとはいえ、死後もなおそれを忘れずに、二つの屍体《したい》を運び、重い二つの墓石を運んだ馬丁《べっとう》の福次郎と六蔵との純情にも感ずるが、この二人をして、それほどまでにも追慕させている、亡くなった二人の姉妹《きょうだい》の心の温かさも偲《しの》ばれる。
十六町の道を、全部踏み分け終って、今ようやく墓の前に立つ。
二本の松は赤松であった。その根元の小高い丘の上に……今私の立っているこの足許《あしもと》に、もはや姉と妹ととは争いもなく、平和に眠っているのであろう。
三根石《みつねいし》は、紫色の膚を光らせて、台石もなく土の上に突っ立っている。
向って右が、
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石橋 スパセニアの墓
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左が、
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石橋 ジーナの墓
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幽蘭香《ゆうらんこう》を焚《た》いて合掌する。香煙はゆらゆらと立ち昇って、墓の面《おもて》を掠《かす》め、そして、私は憮然《ぶぜん》として、墓をみつめて立つ。
死後の世界では、人間はことごとく霊のからだと化して、恋もなければ愛もなく……嫉妬《しっと》……怒り……悲しみ……嘆き……肉に属するもの一切は、ことごとく消え失《う》せてしまうという。
そして、ただ幼児《おさなご》のように楽しく遊んでいると聞く。
石橋スパセニア嬢よ、石橋ジーナ嬢よ、生きていればこそ、人間愛欲の争闘もあれ! 死んだ今となっては、地上の悩み一切を忘れて、ただ楽しく……ただ楽しく……三人で幼児のように楽しい日をお送りなさい! と私は眼を瞑《と》じて黙祷《もくとう》した。
「こんな淋《さび》しいところに親子別々に葬っておくのは、可哀《かわい》そうじゃありませんか! お父さんのお墓も、ここへ一緒にして上げたら、いいじゃありませんか!」
と私は牧田氏を顧みた。
「そうするでがす。わしもそう思うとるでがす」
と、牧田氏の言葉はなくて、六蔵が引き取った。
「今日までは幽霊だとか何だとか、わしも気味《きび》悪かったでやすが、旦那様がおいでになって、もうなんともねえでがすから、早速そうするでがす……」
風が梢《こずえ》を颯々《さっさつ》と鳴らして、香煙がゆらいでいた。
底本:「橘外男ワンダーランド 怪談・心霊篇」中央書院
1996(平成8)年6月10日第1刷
初出:「小説春秋」
1956(昭和31)年4〜5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年12月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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