つまいものいも床づくりに余念のない百姓たちが、その手を休めて見送るのんびりした光景も、南国らしい眺めである。
佐伊津、御領、鬼池を過ぎると、有明海と、早崎海峡をへだてた島原半島が、指呼の間に望まれる。右手の沖合に、瀬戸内海航行の時見覚えのある、屋島に似た、下手な粘土細工の文鎮をおいたような島がある。湯島という島だが談合島の名もある。天草の乱に際し天草四郎以下の切支丹宗徒の幹部連中が、この島によつて、種々作戦を練り談合したので、それ以来その名が冠せられるようになつたそうだ。見はるかすこの内海を、縦横にかけめぐつて、時の支配階級の宗教弾圧に抗した、切支丹宗徒の情熱が、じかに感ぜられる思いがする。
鬼池あたりからの雲仙が、もつともよい、というさる歌人の随筆を読んだことがある。なるほど晴れ渡つた青空に浮く普賢《ふげん》眉《まゆ》の両山の眺めは、早崎海峡をひかえているだけに、雄大ではあるが、その真反対の北側の雲仙を永年見なれて来た私にとつては、何となくものたりない。雲仙はやはり北方からの眺めに如くはなし、というのは、私の郷土びいきのせいであろうか。
二江を過ぎると、通詞島がある。べつだん解説書を見たわけではないが、開国のころ通訳の居住していた島ではないだろうか。やがてバスは、坂瀬川上津深江にさしかかる。天草無煙炭の産地として知られている。海岸の突端に、石炭運搬路がくすぼつて見えるが、今まで美しい風景を見なれて来た眼には、何となくそぐわない感じだ。バスの客は少しずつ減るが、それに反してバスの動揺はいよいよはげしくなるのであつた。
十二時少し過ぎ、富岡着。
満員のバスの中で私のかばんを抱いていてくれた青年が、私に話しかけて来た。私も多分この土地の人ではあるまいと想像していたが、果して彼は朝日新聞の社員であつた。べつだん観光以外の目的があつて、この地に来たのではないので、名刺を交換すると、とりあえず私は彼の行先である、九大臨海実験所に随行することにした。
このような僻すうの地に、このような設備があろうとは、私も考えないところであつた。臨海実験所の主任だというK氏、彼は年のころ二十七八でもあろうか、紅顔の美少年とでもいいたい程の青年学徒である彼の語るところによれば、実験所が開所されて、来る四月十日が、二十周年記念に当るという。きわめて地味な研究所で、政治的な動きの全くない
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