だて》は学生村設立趣意書に発表してある。尾瀬沼は現在の儘とし、日光箱根等の如く俗化させたくないものである。ただし登山者に交通の便を計るため林道の作成に尽力し、日光方面は大正十二年に鬼怒沼林道の開拓を見、これより西利根水源に林道の開拓を企図し、新潟県へ交渉し、群馬県沼田小林区署は利根水源林道の設計を大林区署へ提出せらる。新潟県六日町小林区署よりも同じく提出し、我福島県山口小林区署よりもまた提出せり。
新潟県南魚沼より一線、北魚沼より一線、群馬県利根水源へ藤原より一線、この三線の林道を開拓して尾瀬原へ貫通し、尾瀬沼に至り、鬼怒沼へ達し、日光方面に至る、かくすれば日光方面、沼田方面、会津方面と皆連絡あり。その他の支線は徐々に開発すべく、先ず本幹となるべき林道の開拓に急進し、要所要所に無料宿所を設くべく、尾瀬原には現にこれが建設されありて学生らの便宜となれり。鬼怒沼間にも建設したき希望にて計画中である、尾瀬原と尾瀬沼間の道の修繕もなさなければならず、赤貧の山人苦心惨憺たるものがある。十四年には学生村の遊船は建造に着手すべし。水利権問題にては訴願中紛擾もあり、群馬県土木課の冷淡苛酷、殆《ほとん》ど拾年間も自力にて修繕しつつある情態にて容易の業ではない。しかもまた一方には圧迫を加えんとする愚俗もある。愛山者はともにこの自然の神苑を叮重に保存し、有意義の享楽場たらしめたい。自然は人工に成ったものでないから、これを破壊するのは、自然の殺人者とも称すべく、水利権を他へ移転せば多少の価は得らるるも、さすれば山人は自然の逆殺者となる也。
この意味を解せずして、彼是《かれこれ》と目先の利に熱中し、山人に妨碍《ぼうがい》を与え、脅迫がましき言を弄《ろう》する人もあれど、また大に厚意を寄せて援助せらる愛山者もあるに依り、心強く感じて赤裸にて微力を傾注するのである。明治廿一年より開発に着眼し、三拾六年の星霜を経過せり。その間に修得せる感想と体験とは不日《ふじつ》世に告白することとすべし。
底本:「山の旅 大正・昭和篇」岩波文庫、岩波書店
2003(平成15)年11月14日第1刷発行
2007(平成19)年8月6日第5刷発行
底本の親本:「山岳 第一九年第一号」
1925(大正14)年5月
初出:「山岳 第一九年第一号」
1925(大正14)年5月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年6月21日作成
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