》して、その最後の「ウーン」といったという断末魔に猿を連想する猟師たちは決して「猿《さる》」と呼ばず「猿公《えんこ》」と呼ぶ迷信があるからかも知れない。
 福松の姉は、黒部の平《たいら》の弥曾太郎の女房だ。頼もしかった弟の死を、どんなに諦めようとしても諦らめられぬと愚痴《ぐち》る。劍の小屋の源次郎が当時の話をしてくれる。
 その骨肉や、先輩たちの、「山師は山で果てる」言葉通りの死を痛みつつも、やはり山から離れられない所に山人の宿命がある訳だ。
 私はここに、登山案内史的な記述をしようとするのではないが、近来の素晴らしい登山の発達というよりも、登山熱が、如何《いか》に彼らの姿を変えたかと考える時に、いささか懐古的な気持にならざるを得ない。いわば第二期に位する者に、現在、芦峅の平蔵があり、大山村の長次郎があり、音沢村の助七があり、中房の善作があり、大町に玉作、林蔵、が生きていて、なお往々、登山者の案内役を務めてはいる。けれども、暫《やが》てその人たちも、劍の平蔵谷に、長次郎谷に、そのモニューメントを残して各々《おのおの》山人らしくこの世を去ってゆくのであろう。登山者は今少数の彼らに依って、僅かに昔ながらの山人の片鱗《へんりん》を見る事が出来るであろう。
 山人にとっては余りにテンポが早すぎる現代である。
 紺の脚袢《きゃはん》、蒲《がま》はばきは、ゲートルに、草鞋《わらじ》は、ネイルドブーツに、背負梯子《しょいな》は、ルックサックに、羚羊の着皮は、レーンコートに移り変る。
 有明口や、白馬口方面には仲々モダン化した案内人を見受ける。彼らは手製の荷杖を捨てて、ピッケルのマークを誇り合うようにさえなった。有明の中山彦一はシェンクのピッケルを有《も》ってるぞという話まで伝わって来る。
 けれども結局山人である彼らにとっては登山者の知識、技術、セオリー通り追付いてゆく術《すべ》はないのだ。
 登山者は実に多種多様だ。ある人に取っては彼らは、既に案内者ではあり得ない。ポーターにしか過ぎない。登山者はまた、実に様々な要求を彼らに希望する。鉄道省旅客課あたりから登山者の感想、註文を求めると、千差万別な投書が舞い込むのである。
 △案内人の人格教養を高めよ!
 △客の作成せるスケヂュールを変更するな
 △料金を下げよ
 △山人独特の純朴な気持を失うな
 ――彼らの気風の変ってゆくのは登
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