う、ほとんど全く目が暗んでいたのだろう。
 吉弥は、自分に取っては、最も多くの世話を受けている青木をも、あたまから見くびっていたのだから、平気で僕の筆を利用しようとした。それをもって綺麗に井筒屋を出る手つづきをさせようとしたのは翌朝のことであるが、そう早くは成功しなかった。
 僕が昼飯を喰っている時、吉弥は僕のところへやって来て、飯の給仕をしてくれながら太い指にきらめいている宝石入りの指輪を嬉《うれ》しそうにいじくっていた。
「どうしたんだ?」僕はいぶかった。
「人質に取ってやったの」
「おッ母さんの手紙がばれたんだろう――?」
「いいえ、ゆうべこれ(と、鼻をゆびさしながら)に負けたんで、現金がないと、さ」
「馬鹿野郎! だまされていやアがる」僕は僕のことでも頼んで出来なかったものを責めるような気になっていた。
「本統よ、そんなにうそがつける男じゃアないの」
「のろけていやがれ、おめえはよッぽどうすのろ芸者だ。――どれ、見せろ」
「よッぽどするでしょう?」抜いて出すのを受け取って見たが、鍍金《めっき》らしいので、
「馬鹿!」僕はまた叱《しか》りつけたようにそれをほうり出した。
「しどい、わ」吉弥は真ッかになって、恨めしそうにそれを拾った。
「そんな物で身受けが出来る代物《しろもの》なら、お前はそこらあたりの達磨《だるま》も同前だア」
「どうせ達磨でも、憚《はばか》りながら、あなたのお世話にゃアなりませんよ――じゃア、これはどう?」帯の間から小判を一つ出した。「これなら、指輪に打たしても立派でしょう?」
「どれ」と、ひッたくりかけたら、
「いやよ」と、引ッ込めて、「あなたに見せたッて、けちをつけるだけ損だ」
「じゃア、勝手にしゃがアれ」
 僕は飯をすまし、茶をつがせて、箸《はし》をしまった。吉弥はのびをしながら、
「ああ、ああ、もう、死んじまいたくなった。いつおッ母さんがお金を持って来てくれるのか、もう一度手紙を出そうかしら?」
「いい旦那がついているのに、持って来るはずはない、さ」
「でも、何とやらで、いつはずれるか知れたものじゃアない」
「それがいけなけりゃア、また例のお若い人に就《つ》くがいいや、ね」
「それがいけなけりゃア――あなた?」
「馬鹿ア言え。そんな腑《ふ》ぬけな田村先生じゃアねえ。――おれは受け合っておくが、お前のように気の多い奴は、結局ここを去ることが出来ずにすむんだ」
「いやなこッた!」立ち上って、両手に膳《ぜん》と土瓶とを持ち、
「あとでいらっしゃい」と言って二階の段を降りて行った。下では、「きイちゃん、御飯」と、呼びに来たお君の声がきこえた。

     九

 その日の午後、井筒屋へ電報が来た。吉弥の母からの電報で、今新橋を立ったという知らせだ。僕が何気なく行って見ると、吉弥が子供のように嬉しがっている様子が、その挙動に見えた。僕が囲炉裡《いろり》のそばに坐っているにもかかわらず、ほとんどこれを意にかけないかのありさまで、ただそわそわと立ったりいたり、――少しも落ちついていなかった。
 そこへ通知してあったのだろう、青木がやって来た。炉のそばへ来て、僕と家のものらにちょっと挨拶をしたが、これも落ちつきのない様子であった。
「まだお宅へはお話ししてないけれど、きょう私がいよいよ吉弥を身受け致します。おッ母さんがやって来るのも、その相談だから、そのつもりで、吉弥に対する一切の勘定書きを拵《こさ》えてもらいましょう」
 こう言って、青木が僕の方を見た時には、僕の目に一種の勝利、征服、意趣返し、または誇りとも言うべき様子が映ったので、ひょッとすると、僕と吉弥の関係を勘づいていて特に金ずくで僕に対してこれ見よがしのふりをするのではないかと思われた。
 さらに気をまわせば、吉弥は僕のことについていい加減のうそを並べ、うすのろだとか二本棒だとか、焼《や》き餅《もち》やきだとかいう嬉しがらせを言って、青木の機嫌を取っているのではないかとも思われた。どうせ吉弥が僕との関係を正直にうち明かすはずはないが、実は全く青木の物になっていて、かげでは、二人して僕のことを迂濶《うかつ》な奴、頓馬《とんま》な奴、助平な奴などあざ笑っているのかも知れないと、僕は非常に不愉快を感じた。
 しかし、不愉快な顔を見せるのは、焼き餅と見えるから、僕の出来ないことだし、出来ないと言っても、全くこれを心から取り除くことはなし得なかった。これを耐え忍ぶのは、僕がこれまで見せて来た快濶の態度に対しても、実に苦痛であった。しかし、その当面の苦痛はすぐ取れた。と言うのは、青木がすぐ立ちあがって、二階の方へ行ったからであるが、立ちあがった時、かたわらの吉弥に目くばせをしたので、吉弥は僕を見て顔を赤らめたまま青木の跡について行った。
 僕は知らない風をしてお
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