すのは知れきっているから、行かない方がいいと思い定めた。それで、吉弥を呼べば、うなぎ屋へ呼んだが、飲みに行く度数がもとのようには多くなくなった。
 勉強をする時間が出来たわけだが、目的の脚本は少しも筆が取れないで、かえって読み終ったメレジコウスキの小説を縮小して、新情想を包んだ一大古典家、レオナドダヴィンチの高潔にしてしかも恨み多き生涯を紹介的に書き初めた。
 ある晩のこと、虚心になって筆を走らせていると、吉弥がはしご段をとんとんあがって来た。
「………」何も言わずすぐ僕にすがりついてわッと泣き出した。あまり突然のことだから、
「どうしたのだ?」と、思わず大きな声をして、僕はかの女の片手を取った。
「………」かの女は僕に片手をまかせたままでしばらく僕の膝の上につッ伏していたが、やがて、あたまをあげて、そのくわえていた袖を離し、「青木と喧嘩したの」
「なアんだ」と、僕は手を離した。「乳くり合ったあげくの喧嘩だろう。それをおれのところへ持って来たッて、どうするんだ?」
「分ってしまった、わ」
「何が、さ?」僕はとぼけて見せたが、青木に嗅ぎつけられたのだとは直感した。
「何がッて、ゆうべ、うなぎ屋の裏口からこッそりはいって来て、立ち聴きしたと、さ」――では、先夜の僕がゆうべの青木になったのだ。また、うわばみの赤い舌がぺろぺろ僕の目の前に見えるようだ。僕はこれを胸に押さえて平気を装い、
「それがつらいのか?」
「どうしても、疑わしいッて聴かないんだもの、癪にさわったから、みんな言っちまった――『あなたのお世話にゃならない』て」
「それでいいじゃアないか?」
「じゃア、向うがこれからのお世話は断わると言うんだが、いいの?」
「いいとも」
「跡の始末はあなたがつけてくれて?」
「知れたこッた」と、僕は覚悟した。
 こういうことにならないうち、早く切りあげようかとも思ったのだが、来べき金が来ないので、ひとつは動きがつかなくなったのだ。しかし、もう、こうなった以上は、僕も手を引くのをいさぎよしとしない。僕は意外に心が据った。
「もう少し書いたら行くから、さきへ帰っていな」と、僕は一足さきへ吉弥を帰した。

     一八

 やがて井筒屋へ行くと、吉弥とお貞と主人とか囲炉裡《いろり》を取り巻いて坐っている。お君や正ちゃんは何も知らずに寝ているらしい。主人はどういう風になるだろうと心
前へ 次へ
全60ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岩野 泡鳴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング