で、おやじが「こんなところでお花でもやれば」と言ったのは、僕をその方へ引き込もうとして、僕の気を引いて見たのだろうと思い出された。
「なァに、どうせ僕は花はしないから――」
 お袋はいないし、おやじは僕を避けている。婆アやも狭い台どころへ行って見えない。
 一昔も過ぎたかのように思われる国府津のことが一時に僕の胸に込みあがって来て、僕は無言の恨みをただ眼のにらみに集めたらしい。
「あのこわい顔!」菊子は真面目にからだを竦《すく》ませたが、病んでいる目がこちらを見つめて、やにッぽくしょぼついていた。が、僕にもそのしょぼつきが移っておのずから目ばたきをした時、かの女は絳絹《もみ》の切れを出して自分で自分の両眼のやにを拭いた。
 お袋がいずれ挨拶に来るというので、僕はそのまま辻車《つじぐるま》を呼んでもらい、革鞄を乗せて、そこを出る時、「少しお小遣いを置いてッて頂戴な」と言うので、僕は一円札があったのを渡した。
「二度と再び来るもんか?」こう、僕の心が胸の中で叫んだ。
 僕が荷物を持って帰ったのを見て、妻は褥《とこ》の中からしきりに吉弥の様子を聴きたがったが、僕はこれを説明するのも不愉快であった。
「あのくらいにしてやったんだから、義理にもお袋が一度は来るでしょう――?」
「そうだろうよ」僕はいい加減な返事をした。
「吉弥だッてそうでさア、ね、小遣いを立てかえてあるし、髢《かもじ》だッて、早速髷に結うのにないと言うので、借《か》してあるから、持って来るはずだ、わ」
「目くらになっちゃア来られない、さ」
 僕の返事は煮えきらなかったが、妻の熱心は「目くら」の一言に飛び立つようにからだを向き直し、
「えッ! もう、出たの?」と、問い返した。
 吉弥の病気はそうひどくないにしても、罰当り、業《ごう》さらしという敵愾心《てきがいしん》は、妻も僕も同じことであった。しかし、向うが黴毒《ばいどく》なら、こちらはヒステリ――僕は、どちらを向いても、自分の耽溺の記念に接しているのだ。どこまで沈んで行くつもりだろう?
「まだ耽溺が足りない」これは、僕の焼けッ腹が叫ぶ声であった。
 革鞄をあけて、中の書物や書きかけの原稿などを調べながら、つくづく思うと、この夏中の仕事は――いろんな考えを持って行ったのだが――ただレオナドの紹介ばかりが出来たに過ぎない。それも、今月中の喰い物の一つになってしま
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