ありません、な』と答へた。この人、どんなにえらかつたのか、それは僕にも分らないが、おのれの立ち塲に主眼がないと云ひ切る勇氣のあつたのは賞すべきである。大悟したのはまた別な迷ひに這入るので[#「大悟したのはまた別な迷ひに這入るので」に白丸傍点]――人は自己の救ひを刹那刹那に求めて居る[#「人は自己の救ひを刹那刹那に求めて居る」に白三角傍点]。他人の手を引ツ張つて天國に入ることは、到底出來ない相談である[#「他人の手を」〜「相談である」に白丸傍点]。アリストテレースの樣に、徳は以つて教ゆべく、また練習すべきものだとは、愚論の極と云はなければならない。
若し不平を訴ふるところが實際あつたなら、そこで泣きつぶれて、そのまゝ宇宙と縁を切つてしまつても滿足であらう。然し、同情なるものは不完全と不完全との誤魔かし合ひであつて、慈悲とは弱點を以つて弱點を裝ふの具に過ぎない[#「然し」〜「過ぎない」に傍点]。僕等の悲痛はこの無目的な宇宙に持つて行きどころがないのである[#「僕等の悲痛は」〜「行きどころがないのである」に白丸傍点]。相思ひ、相抱いて心中する男女が、その刹那を越えれば、砂の碎けた樣に別になつて、またおの/\別な苦痛と悲愁とを現ずるのである。ストア派の哲學者はゼノーもセネカも、自由獨立の靈にならうとして自殺を遂げたが、現在に獨立が出來ないなら、その表象である未來に何でまた獨立が得られよう。自殺をするなら、わが國の古武士の樣に、當體に屬する罪の滅しか、または、君主の犧牲となつて、未來と幸福との觀念以外に、潔く臨時の變形[#「臨時の變形」に傍点]を以つて滿足するが善い。解脱と涅槃とを古事つけて來るのは未練である。病めるもの、艱めるものは、如何にも憐むべきではあるが、之に同情し、之を救はうとする餘裕があると思ふのは、自己の本性を僞るので――加藤博士の愛己説は、たゞ普通の究理的形式を以つて説いてあるのであるが、僕の刹那觀から云ふと、博士の所謂愛己の變形なる愛他をも許さないのである。自我の眠つて居る時、非我なる假定物の見えよう筈はなし,また、自我の覺めて居る時、之があるとしても、之を救ふまでの餘地がない[#「自我の眠つて居る時」〜「餘地がない」に傍点]。解脱と涅槃とは、直ちに自我の滅亡を意味して居るので――その實、滅亡することがないから、井上博士の云はれた無邪氣な小供ばかりではない[#「無邪氣な小供ばかりではない」に傍点]、僕等はすべて解脱が出來ないのである[#「僕等はすべて解脱が出來ないのである」に白三角傍点]。
ああ、表象の直觀ばかりが悲痛のうちに機々相傳へて、刹那的存在である僕等の生命をつないで呉れるのである[#「ああ」〜「呉れるのである」に白丸傍点]。
(十六) 運命の杖――悲痛の靈
シヨーペンハウエルは意志の一時的斷滅を以つて藝術の極致とした。渠の所謂意志は世界と同一であつて、他に求めるものがないから、常に飢渇的で、その自體を食《は》んで生活して居る――之を斷滅するのは、取りも直さず世界を斷滅することである。出來ることなら、これより好都合なことはない。ニーチエはこの思想を歴史上に布衍して云つた、弱者を奴隷にして、強者が之に權力を振ふのは、文明の要素であつて、眞の文明は實に殘忍酷烈のものであると――そのつひに、偉人天才の大なるものは、悲莊の情態に住して、而もなほ身づから喜悦して居る[#「偉人天才の」〜「喜悦して居る」に傍点]と云ふに至つたのは、エメルソンの方便的樂觀と、性質は違つて居ようが、行き方は一つである。
僕も、自分の現象即實在論には、平和な觀じ方が出來ない,無意味、無内容の活動[#「無意味、無内容の活動」に白三角傍点]その物を以つて當て填めてあるので、自然に殘酷な思想になる。井上博士の所謂活動の上には、實在なるものを豫想して居るか、または豫想する傾向があるので、勢ひ例の僞善的にならうとする。その極度は、現象を現象だと別けて見て、それを卑しむ樣になつて、プロチノスのやつた通り、わが身でわが身を忌み嫌ふ樣な僞善的、愚昧的なことになるまいものでもない。大乘佛教などが、その一角から崩れて來て、死物同前になつたのはそれである。僕の所謂活動は、實在が現象となり、現象が實在となる、乃ち、物心轉換の機を活かす表象のうちに含まれて居るのである[#「僕の所謂活動は」〜「居るのである」に傍点]。だから、矢張り無目的で、殘酷なものである[#「だから」〜「殘酷なものである」に白丸傍点]。
僕は先きにこの表象は運命の杖であると云つた。それがまたアロンの杖[#「アロンの杖」に傍点]に似て居る。『パロとその臣下の前に投げうちしに、蛇となりぬ』とあつて、エジプトの博士と法術士等もおの/\その杖を蛇と爲し得たが、アロンの杖はすべて之を呑んでしまつた
前へ
次へ
全41ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岩野 泡鳴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング