が僕にはほんまの勇気やろ――を出して後方にさがった。独立家屋のあたりには、衛生隊が死傷者を収容する様子は見えなんだ。進んだ時も夢中であったんやが、さがる時も一生懸命――敵に見付かったらという怖さに、たッた独りぽッちの背中に各種の大砲小銃が四方八方からねらいを向けとる様な気がして、ひどう神経過敏になった耳元で、僕の手足が這うとる音がした。のぼせ切っておったんや。刈り取られた黍畑や赤はげの小山を超えて、およそ二千メートル後方の仮繃帯場へついた時は、ほッと一息したまま、また正気を失《うしの》てしもた。そこからまた一千メートル程のとこに第○師団第二野戦病院があって、そこへ転送され、二十四日には長嶺子定立病院にあった。その間に僕の左の腕が無うなっとった。寝台の上に仰向けになったまま、『おや腕が』と気付いたんやが、その時第一に僕の目に見えたんは大石軍曹の姿であった。この人をしかった上官にも見せてやりたかったんやが、『その場にのぞんで見て貰いましょ』と僕の心を威嚇して急に戦争の修羅場が浮んできた。僕はぞッとして蒲団を被ろうとしたが手が一方よりほか出なかった。びっくりした看護婦が、どうしたんや問うたにも答えもせず、右の手を出してそッと左の肩に当って見たら二三のとこで腕が木の株の様に切れて、繃帯をしてあった。――この腕だ。」
 と、友人は左の肩を動かした。
「如何に君自身は弱くっても、君の腕はその大石軍曹と同じく、行くえが知れない程勇気があったんだ」と、僕は猪口を差した。
 友人は右の手に受けて、言葉を継ぎ、「あの時の心持ちと云うたら、まだ気が落ち付いとらなんだんやさかい、今にも敵が追い付いて来そうで、怖いばかりのまぼろしを見とったのや。後で看護婦の話を聴いたら、大石軍曹までを敵に思たんであろ、『大石が来た、大石が来た』云うてたびたびうなされとったそうや。して、その軍曹は而も僕を独立家屋のそばまでかかえて来て呉れた命の親だ。よくよく僕は卑恐《ひきょう》の本音を出したもんやらしい。」
「それは僕に解釈さして呉れるなら」と、僕は口を出して、「気狂いとまで一方に思った軍曹の、大胆な態度に君が深く打たれたので、夢中な心にもそれを忘れかねたんだろう。」
「それ、さ。」友人は卓を打って、「僕は今でもその姿が見える様なんや。岡見伍長に大石軍曹は神さんや」と、気の弱いにも似ず、何となく威だけ高になった友人の姿には、一種の神々しいところがあった。その寂しいほほえみは消えて、顔は、酒の酔いでなく、別の力の熱して来た目つきであった。僕は、周囲の平凡な真ん中で、戦争当時の狂熱に接する様な気がした。
「大石軍曹は」と、友人はまた元の寂しい平凡に帰って、「その行くえが他の死者と同じ様に六カ月間分らなんだ、独立家屋のさきで倒れとったんを見た云うもんもあったそうやし、もッとさきの方で負傷したまま戦ことった云うもんもある。何にせい、聨隊の全滅であったんやさかい、僕の中隊で僕ともう一人ほか生還しやへんのや。全滅後、死体の収容も出来《でき》んで、そのまま翌年の一月十二三日、乃ち、旅順開城後までほッとかれたんや。一月の十二三日に収容せられ、生死不明者等はそこで初めて戦死と認定せられ、遺骨が皆本国の聨隊に着したんは、三月十五日頃であったんや。死後八カ月を過ぎて葬式が行われたんや。」
「して、大石のからだはあったんか?」
「あったとも、君――後で収容当時の様子を聴いて見ると、僕等が飛び出した川からピー堡塁に至る間に、『伏せ』の構えで死んどるもんもあったり、土中に埋って片手や片足を出しとるもんもあったり、からだが離ればなれになっとるんもあった。何れも、腹を出しとったんはあばらが白骨になっとる。腹を土につけとったんは黒い乾物見た様になっとる。中には倒れないで坐ったまま、白骨になっとったんもある。之を見た収容者は男泣きに泣いたそうや。大石軍曹はて云うたら、僕がやられたところよりも遙かさきの大きな岩の上に剣さきを以て敵陣を指したまま高須聨隊長が倒れとった、その岩よりもそッとさきに進んだところで、敵の第一防禦の塹壕内に死んどったんが、大石軍曹と同じ名の軍曹であったそうや。」
「随分手柄のあった人どす、なア」と、細君は僕の方に頸を動かした。
「そりゃア」と、僕が話しかける間もなく、友人は言葉をついだ。
「思て見ると、僕は独立家屋のそばまで後送して呉れた跡で、また進んで行て例の『沈着にせい、沈着にせい』をつづけとったんやろ。――まア、ざっとこないな話――君の耳も僕の長話の砲声で労れたろから、もう少し飲んで休むことにしよ。まア、飲み給え。」
「酌ぎましたよ」と、すすめる細君の酌を受けながら、僕は大分酔った様子らしかった。
「君と久し振りで会って、愉快に飲んだし、思いもよらない君の戦話を聴いたし、もう、何
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岩野 泡鳴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング