縁がはへ出ると、目の下にうづもれたこうえふのあひだを右から左りへと十間はばばかりの川水が白く音を立てて流れてゐる。その上流と下流とからうへへそり返つて黄、赤、べに等のいろづき葉が、松その他の針葉樹の青葉と入りまじつて、横へ四つに重なつた山山の絶頂まで一面につらなり渡つてる。隨分大きいと云へば大きい景だ。そしてその全景を引き締める爲めのやうに、例の杉の森が一番こちらへ近く、僕の目の前に立つてゐる。無論、その眞ッ下の崖にもこうえふはいち面だ。つまり、ながめのそらからも、またその目の下からも。赤い照らしが滿ちて來て、それを眞ン中に針葉樹の青さが一層に引き立ててゐる。
 福渡りのは――僕の占領してゐる場所からは別だが――かの川添ひの部屋々々から見ると、こう葉をこう葉の中から見るやうな景だ。が、ここのはそれを近く見おろし、遠く見渡すのである。近く迫つた方だけで云へば、北海道のこうえふの一名所|神居古潭《かもゐこたん》の景に似てゐて、ただ面白い釣り橋がないばかりだ。が、また、かの釣り橋の代りに、僕らの倚る高どのの欄干《らんかん》がある。そして下を見おろすと目がくらむほどだ。
 晩食にはまだ二時間ばかりあるので、以上けふの日記をお前へ出しかたがた、そとへ出て、もッとさきの方の道へと狹い芝ばしを渡つて進むと、行く手の川ぶちに少し平らかな廣ろ場が見えて、植ゑ付けたやうに紅葉樹の幹が立ち並んで、多くの幹と幹とのあひだがこれも赤さうな太陽のよこ照らしに向ふのそらを透かし彫りにしてゐる。來たついでにそこまで行き付くと、入り口に梅ヶ岡と云ふ立て札がしてあつた。その中で僕の丁度一と部屋置いて隣りにゐ合はせた中年者夫婦が一緒に寫眞を取らせてゐたのを少し隔ててながめながら行くと、向ふの方から何だか見たやうな人がにこ/\してやつて來るのではないか?
 お前は誰れだッたと思ふ? 婦人作家の○○さんなら、近ごろここへ來てゐるとか新聞にあつたから、ひよッとすると出會ふかも知れないとは思つてたが、小寺健吉氏とは僕も思ひも寄らなかつた。繪に適する位置を方々探してゐたらしい。而も同じ旅館の四階に來てゐるのであつた。渠《かれ》は毎年來るのだが、
「去年の今ごろは、もう、こうえふが半ば以上過ぎてゐたが」とのことだ。暫らく一緒に崖のそばの腰かけに休んだが、僕らの目の前に紅葉して崖の中腹からかしらを出してる二本の特別な樹は、二本とも、葉の大きい、きざみの淺いイタヤもみぢのやうであつた。
 宿へ歸つてから、渠に聖目《せいもく》を置かせて碁を七八番ばかり打つて、一緒に食事をした。そして互ひに別室へ別れてから、僕は中央公論の續きを書き初めて、午前の一時半まで起きてた。川水の遠い音にまじつて、雨がさアと降つてゐるのが近く聽えた。



底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
※1919(大正8)年11月記
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
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