ではここへ東京日々だけを毎日送つて貰ひたい。大抵の手紙も保留して置いて、誰れから何が來たと云ひさへすればよし。

    *

 湯は並んで大小三室にも別れてゐるが、客としては僕ひとりが自由に占領してゐられるやうなものだ。本館には誰れもゐないやうすだ。
 十月廿九日。曇。今曉二時まで起きてて、今一度湯にあッたまつてからとこに就いた。けふ、晩食後、別館の老人夫婦を訪問して見たら、
「孫がむづかるので、もう、あす歸らうと思ひますが、自動車は癪にさわりましたから、馬車にしようと思つてます」と云つた。馬車で新鹽原まで行き、それから輕便鐵道の便があるのだ。
「僕も歸る時にはさうするかも知れません」と答へた。然し、旅へ出てゐても腰を据ゑてるあひだは、二度と來るか來ないは考へるが、まだ左ほど歸りのことが苦にならぬものだ。
 十月三十日。晴。けさの二時に『子無しの堤』と云ふ、實際に人間らしい小説を五十三枚書き終はつたので、十時に起きて食事をすませると、一と息入れて來るつもりで車上を奧の方へ行つた。福渡りの宿屋が並んでる道を三四丁も行くと、その突き當りに白倉山《しろくらやま》のふもとなる天狗岩と云ふ大きな石が山にべッたりと廣がつて屹立して、その周圍もみなこうえふだ。
 そのけはしいやま裾を左りへ曲つたところに、直ぐ退馬橋《たいまばし》がかかつて、川添ひ道が走つてゐる。然し、橋からまた直ぐのところに横へ左りに渡る橋があつて、そのさきは植竹氏私有の公園だと車夫は説明した。そこにも樹の葉の色に照つてるのが望める。植竹氏の第四子に當る人は東京に出版屋をやつてたこともあつて、僕も直接知らないでもないのだから、この公園の名も多少の親しみがあつた。それをながめながら、川のこなたを進んだ。
「植竹さんだッて、縣下一等の金滿家としても百萬圓はありますまい。それに、内田信也と云ふ人はただ栃木縣に生まれたと云ふばかりで高等學校建設の爲めに百萬圓を寄附したと云ふのですから、土地のものは皆呆れたほど驚いてをります」と云つた宿の主人の言葉を思ひ出しながら。
 退馬橋から三四丁來たところに、鹽釜と云ふ宿場があつて、そこの鹽原郵便局で人間社宛ての原稿の書き留め郵便を出した。また二三丁で(この邊はさう人の目に見えないでのぼり道になつてるが)福渡りの宿々の内湯へ引いた湯の出もとのあるところへ來た。この邊の川ぶちから見返
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