。その来朝したときは警察との間に、政府との間に、たいへんに面倒ないきさつがあった。彼は、そうした雰囲気にあるのを苦悩しておった。だが、彼はとても強い個性の持主ではあったが、そのときはたいへん隠忍していた。彼は英国貴族で、その性格はとても日本人には好かれた。お世辞を言うのが大の嫌いであった。これは別の話だが、いつかゆっくりした時間があったとき、彼に「現存する世界の偉人は誰と思う? その三人ばかりを挙げて見てくれ」と言ったら、彼は第一にアルベルト・アインシュタインを挙げ、第二にある人を、そして三人目には答えなかった。そのとき私は「相対性原理」なるものが学界で如何なる地位にあるかを知らなかった。したがってアインシュタインなる人がどんな人かをも知るところがなかった。彼は余の通訳子をしてニュートンに相対立する偉人であることをつぶさに物語ってくれた。

 それから、その翌日であったか、その日は確かにおぼえぬが、私は西田幾多郎さんに相対性理論のいかなるものであるかをきき、さらに、石原純さんにもそのことをきいて、今度は我が学界のために四、五万円を投じてアインシュタイン氏を招聘するときめて、室伏高信君に渡欧してもらったのであった。
 もっとも、そのことを決するまでには、いくたの我が理学者たちの意見もきいたのであったが、異口同音に、「それは大学でもかねがね招びたく思っているのであるが、その費用がないので」とのことがあった。

 かくて十一月十八日アインシュタイン教授夫妻は東京駅についた。その夜の光景はまるで凱旋将軍を迎うる如く、プラットホーム及び停車場の広場は数万の人の山で、教授夫妻は三十分近くもプラットホームに立往生したのであった。
 教授は滞日中、東京帝大の特別講演をはじめ、その他京都、大阪、神戸、仙台、福岡で画期的長講演をして、至るところ、偉人としての風貌を慕われた。そして、帝室の御殊遇を始めとし、帝国学士院でも前例のない歓迎辞を穂積院長の名を以て公にした。その内容は、「ガリレオ、ニュートンらが、力学と物理学とにおいて首唱せる原理は二百年来、万世不易なるべしと考えられていたが、教授は別天地より宇宙の状勢を洞観し、遂に時間と空間との融合を図り、以て自然現象を究明するの針路を開かれたその業績の大なる、実に古今独歩である」というにあった。なるほど、彼の思想的革命はニュートンよりも、コペルニクスや、ガリレオよりも偉大であったであろう。

 私は全世界の思潮を風靡したるこの大偉人と、四十日間に亙りて起居を同じくし、芸術の話や、音楽の話、さては社会、経済の諸機構の話に至るまで何かといい指示を受けた。ただ、いつか私に対して「自分は数学が得意でないから」と洩らしたことがある。私は理論物理の不世出の偉人にしては、ずいぶんおかしいことと思って、さらにきき直してみたことがあったが、やはり、それは私の誤りではなかった。教授はまた数学では有名な京大の園正造教授にただし、もしくは石原純氏にたいして、いろいろ相談的の会話があるのを聞いたことがあった。そして東北大学金属科の本多光太郎さんにたいしても、ある質問をするのを見受けたことがある。

 私は思った。もうこれほどの人物になれば、自分の地位とか身分とかいうものを超越する。国家をも、国際をも超越する。一つの長所を尊敬し、そして自分の不足をいつまでも補って行こうとする真理探究者のあの謙虚な態度に頭が下がったのであった。これだけの態度を見せさせられただけでも、私は今回教授を招いた価値のとても高貴であったことを感ぜずにはいられなかった。私は、この方の学問には聾唖で、こんな深奥な理論などは皆目わかるはずがない。しかし、その人格的に感じたことから推しても、市井で眺めたり、つき合ったりする人びとより、一まわり、二まわりの大きさを感ぜずにはいられなかった。

 教授は音楽が好きであった。ベルリンからヴァイオリンを携えて日本に来朝したのであったが、日本内地を旅行中も、夕食後の気もちのいい時などには私などを慰める意味もこもっていたであろうが、ときどき提琴をきかさるるときがあった。私はそのとき、あの大きな頭や、あのふくよかな顔をつくづく見入るのであったが、その瞬間ほど教授にとりて幸福な時間はないようであった。すべてを打ち忘れ、あらゆるものを超越し、身の苦悩も、身の海外万里の地にあるのも打ち忘れて満身法悦にひたっているように見られたのであった。

 私は、教授の思想と、夫人との思想的立場が、どうであろうかはもちろん知るによしなきことではあるが、しかし、夫人を愛するというよりは、いたわりつつむ至人的の態度にも打たれたのであった。
 夫婦の地位、教養の距たりは、ともすれば一方を侮蔑するがような、もしくは、心の窓を三分の一も展かないようなものが有識
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