もあった。しかし、そのどちらもわれわれの意図を誤解していた。我が誌は決して啓蒙運動の境を出でなかった。批判的境地を厳守した。全面的に我が国の方向を誤らしてはならぬ。世界にいわれなく孤立してはならぬ。こうしたモットーの前に進んで来たのであった。
 だが、世界の一角に発生、展開を示しつつあるソ連の諸機構はひいて我が国に重要の影響力あるべきを思い、そしてなまなかそれが秘密秘密で蓋を掩いかぶされていては、却って我が国の方途に不測の禍害のもたらさるべきであろうことを思ったので、ソ連の諸機構、諸現象には、批判を加えることを常に怠らなかった。

 時代の新しい潮波はだんだん飛躍し、労働組合は公認され、巷には労働運動の英雄が出現するに至った。神戸の貧民窟から賀川豊彦君が颯爽として社会の正面に躍り出た。彼の『死線を越えて』の一著の感激はたいしたものであった。彼の行くところ、青年子女蝟集してその手を握るを光栄とした。彼の声音に接するを誉れとした。支配階級の錦繍綾羅にふれるより、この一青年のボロ服にさわって見るのを喜ぶ奇現象を生んだ。大正八年――十年までの我が思想的激変は、たしかに画期的であった。この一著は高名な芸術家からはあまり顧みられなかったが、出版史上に我が国で予想だにすることのできなかった数十万部がプロやインテリの汗手に購われた。それのみならず、この著はほとんど世界各国語にも翻訳された。

 何でもかでも古い伝統を打破しようとする時代であった。クロポトキンから新マルサス主義、ギルド、レニン、リッケルト、フッサールなど目まぐるしいまで変わった学説が歓迎される。森戸君が大正八年クロポトキン事件に坐して大学を逐われてから、思想的厄難がつぎつぎに起こって来た。

 越えて大正十年一月から思想界の第一人者バートランド・ラッセルが我が『改造』に執筆したときは、異常のセンセーションを惹起した。また同年七月彼が来朝したときの如き、神戸埠頭には全神戸の労働者四、五万が出迎うるの謀議が熟していたのを、そうしては、いろいろ面白からぬ現象の到来を予想して、官憲の許すところとならなかったが、それでも岸壁はものすごいまでの人の山であった。
 彼は、北京で大病をしたあがりにもかかわらず慶応大学で「文明の再建」の講演をしたときなぞ、むしろ場内にはいれぬ人が多かったのであった。彼は我が国にとりては危険人物であった
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