し地球の運転が逆になったら反《かえ》って宙を飛ぶのが並のもので下に静《じっ》としているのが怪物《ばけもの》になるかも知れない。また目方《めかた》にしてもその通《とおり》で此処《ここ》で十|匁《もんめ》あるものを赤道直下で量《はか》ったらきっと目方《めかた》が減る、更《さ》らに太陽や惑星の力を受けない世界に行って目方《めかた》を量《はか》るとしたら、目方《めかた》はまるで無くなってしまうかも知れない。してみると目方《めかた》がなければ怪物《ばけもの》だとは一寸《ちょっと》云い難《にく》くなる。
まあ怪物《ばけもの》に目方《めかた》があってもなくっても、そんな事は構わないとして次に大怪物《だいかいぶつ》である我々人間の事を少し考えたい、人間が五官によっている間はまだ悪い怪物《ばけもの》である、世人は科学に中毒してあまりに人間の五官を買い被《かぶ》り過ぎている。暗いところでは何も見えない、鼠や猫に劣る眼を持って実際正確に事物が見えようか、盗人《ぬすびと》の足痕《あしあと》を犬のように探れない鼻で実際香が嗅げようか、舌にしてもその例に洩《もれ》ない、触感も至って不完全なもので、人間はこの五官では到底《とうてい》正確に事物を知ることが出来るものではないのである。ただ茲《ここ》に不思議なのは心である、五官の力を借りないでこの心で事物を知る能力が人間に備っている。即《すなわ》ち種々《いろいろ》ある手段によって三摩地《さまち》の境涯《きょうがい》に入れば自ら五官の力を借りずに事物を正しく知ることが出来る、古来聖人君子の説かれた教《おしえ》は皆この五官の迷《まよい》を捨てよと云う事に他ならないのである。
世の中には怪物《ばけもの》が沢山居る、学問が進んで怪物《ばけもの》の数が少《すくな》くなったと云うがそれはいい加減なことで却《かえ》って殖《ふ》えたかも知れない、我国にも有形無形《うけいむけい》の怪物《ばけもの》が彼方《あっち》にも此方《こっち》にもゴロリゴロリ転《ころが》って世の中はまるで百鬼夜行《ひゃっきやこう》の姿である。
私は百物語で幽霊があるとか、狐や狸は化《ばけ》るものであるとか、世の中に種々《いろいろ》ある怪物《ばけもの》の詮索をするのを止《や》めて先《ま》ず我々人間が一番大きな怪物《ばけもの》で神変《しんぺん》不思議な能力を持っていると喝破《かっぱ》し、多くの人
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