きた
何時もの貧しい食卓に
或る朝、珍しいスープがでた
それをはこぶ妻の手もとは震へてゐたが
その朝を自分はわすれない
その日は朝から空もからりと晴れ
匙まで銀色にあたらしく
その匙ですくはれる小さい脂肪の粒粒は生きてきらきら光つてゐた
それを啜るのである
それを啜らうと瀬戸皿に手をかけて
窶れてゐる妻をみあげた
其處に妻は自分を見まもつてゐた
目と目とが何か語つた
そして傍にさみしさうに座つてゐる子どもの上に
言ひあはせたやうな視線を落した
其の時である
自分は曾て自分の經驗したことのない
大きな強いなにかの此身に沁みわたるのを感じた
終日、地上の萬物を温めてゐた太陽が山のかなたにはいつて
空が夕燒で赤くなると
妻はまた祈願でもこめに行くやうなうしろすがたをして街にでかけた
食卓にはさうして朝毎にスープが上《のぼ》つた
自分は日に日に伸びるともなく伸びるやうな草木の健康を
妻と子どもと朝朝のスープの愛によつて取り返した
長い冬の日もすぎさつて
家の内はふたたび青青とした野のやうに明るく
子どもは雲雀《ひばり》のやうに囀りはじめた
或る時
よろこびはまづ葱や菜つぱの搖れるところからはじまつて
これから……
※[#ローマ数字3、1−13−23]
其處に何がある
足もとの地面を見つめてかんがへてばかりゐる人間の腰ははやく彎曲《まが》る
いたづらに嘆き悲しんではならない
兄弟よ
あたまの上には何があるか
樹木のやうに眞直《まつすぐ》立て
そして垂れた頭をふりあげて高く見上げろ
其處に何がある
この大きな青空はどうだ
人間はこの青空をわすれてゐるのだ
兄弟よ
この大きな青空はどうだ
憂鬱な大起重機の詩
ぐつと空中に突きだした
腕《うで》だと思へ
いま大起重機は動いた
重い大きなまつ黒いものをひつ掴んで
それを輕輕と地面から空中へひき上げた
微風すらない
此の靜謐をなんと言はうか
怖しいやうな日和だ
蟻のやうに小さく
大きな重いものの取去られたところに群がつて
うようよ蠢動《うごめ》いてゐる人人
大起重機のたしかな力をみろ
その大浪のやうな運動を
その大きな沈默を
ああ大起重機の憂鬱!
ああ大起重機の怪物!
此の不可思議な怪力に信頼しろ
それの動いて行く方向をみつめて大空を仰いでゐる人人
それを据附けたのは何ものだ
それをこしらへたのはどの手だ
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