言である。けれど、それだけのことである。

 善い詩人は詩をかざらず。
 まことの農夫は田に溺れず。

 これは田と詩ではない。詩と田ではない。田の詩ではない。詩の田ではない。詩が田ではない。田が詩ではない。田も詩ではない。詩も田ではない。
 なんといはう。實に、田の田である。詩の詩である。

 ――藝術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの藝術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や眞實の行爲に相對するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが藝術をして眞に藝術たらしめるものである。
 藝術における氣禀の有無は、ひとへにそこにある。作品が全然或る敍述、表現にをはつてゐるかゐないかは徹頭徹尾、その何か[#「何か」に傍点]の上に關はる。
 その妖怪を逃がすな。
 それは、だが長い藝術道の體驗においてでなくては捕へられないものらしい。

 何よりもよい[#「よい」に傍点]生活のことである。寂しくともくるしくともそのよい生活を生かすためには、お互ひ、精進々々の事。
[#地から5字上げ]茨城縣イソハマにて
[#地から1字上げ]山村暮鳥

  春の河

たつぷりと
春の河は
ながれてゐるのか
ゐないのか
ういてゐる
藁くづのうごくので
それとしられる

  おなじく

春の、田舍の
大きな河をみるよろこび
そのよろこびを
ゆつたりと雲のやうに
ほがらかに
飽かずながして
それをまたよろこんでみてゐる

  おなじく

たつぷりと
春は
小さな川々まで
あふれてゐる
あふれてゐる

  蝶々

ふかい
ふかい
なんともいへず
此處はどこだらう
あ、蝶々

  おなじく

青空たかく
たかく
どこまでも、どこまでも
舞ひあがつていつた蝶々
あの二つの蝶々
あれつきり
もうかへつては來なかつたか

  野良道

こちらむけ
娘達
野良道はいいなあ
花かんざしもいいなあ
麥の穗がでそろつた
ひよいと
ふりむかれたら
まぶしいだらう
大《でつ》かい蕗つ葉をかぶつて
なんともいへずいいなあ

  おなじく

野良道で
農婦と農婦とゆきあつて
たちばなししてゐる
どつちもまけ
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