千ヶ寺詣
北村四海
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)現今《いま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)親子三人|暮《ぐらし》
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現今《いま》私の家《うち》に居《い》る門弟の実見談《じっけんだん》だが、所は越後国西頸城郡市振村《えちごのくににしくびきぐんいちふりむら》というところ、その男がまだ十二三の頃だそうだ、自分の家《うち》の直《じ》き近所に、勘太郎《かんたろう》という樵夫《きこり》の老爺《おやじ》が住んでいたが、倅《せがれ》は漁夫で、十七ばかりになる娘との親子三人|暮《ぐらし》であった、ところがこの家《うち》というのは、世にも哀れむべき、癩病《らいびょう》の血統《すじ》なので、娘は既に年頃になっても、何処《どこ》からも貰手《もらいて》がない、娘もそれを覚《さと》ったが、偶然《ふと》、或《ある》時父兄の前に言出《いいい》でて、自分は一代法華《いちだいほっけ》をして、諸国を経廻《へめぐ》ろうと思うから、何卒《どうか》家を出してくれと決心の色を現《あらわ》したので、父も兄も致方《いたしかた》なく、これを許したから、娘は大変喜んで、早速《さっそく》まだうら若き身を白衣《びゃくえ》姿に変えて、納経《のうきょう》を懐《ふところ》にして、或《ある》年の秋、一人ふいと己《おのれ》の故郷を後《あと》にして、遂に千ヶ寺詣《せんがじもうで》の旅に上《のぼ》ったのであった、すると、それから余程《よほど》月日も経ったが、不幸にも娘は旅の途中、病《やまい》を得て家に帰って来たが、間もなく、とうとう此度《こんど》は、あの世の旅の人となってしまった、父や兄の悲歎は申すまでもなかったが、やがて、質素な葬式も済《すま》してそれも終った。
すると、或《ある》冬の事、この老爺《おやじ》というのが、元来|談《はなし》上手なので、近所の子供|達《だち》が夜になると必ず皆寄って来て、老爺《おやじ》に談《はなし》をせがむのが例であったが、この夜も六七人の子供が皆《みんな》大きな炉《ろ》の周囲《まわり》に黙って座りながら、鉄鍋の下の赤く燃えている榾火《ほだび》を弄《いじ》りながら談《はな》している老爺《おやじ》の真黒《まっくろ》な顔を見ながら、片唾《かたず》を呑んで聴いているのであった、私に談《はな》した男もその一人であったそうだ。戸外《そと》は雪がちらちら降っていて、時々吹雪のような風が窓の戸をガタガタ音をさして、その隙間から、ヒューと寒く流込《ながれこ》むと、申合《もうしあわ》した様に子供|達《だち》は、小《ちいさ》な肩を皆《みんな》縮める、榾火《ほだび》はパッと一《ひと》しきり燃え上って、後《うしろ》の灰色の壁だの、黒い老爺《おやじ》の顔を、赤く照すのであった、田舎のことでもあるし、こんな晩なので、宵《よい》から四隣《あたり》もシーンとして、折々《おりおり》浜の方で鳴く鳥の声のみが、空に高く、幽《かす》かに聞えてくるのである、夜も更《ふ》けて十時過ぎた頃だった、今まで興《きょう》に乗じて夢中に談《はな》していた老爺《おやじ》が、突然誰も訪れた声もせぬのに、一人で返事をしながら、談《はなし》半ばに、ついと起《た》って、そこの窓際まで来て、雨戸を開けて、恰《あだか》も戸外《おもて》の人と談《はなし》をしているかの様子であった、暫時《しばらく》して、老爺《おやじ》はまた戸を閉めて、手に何か持ちながら其処《そこ》の座に戻って来たが、子供等もあまり不思議に思ったので、それを尋ねると、老爺《おやじ》はさも困ったという風をして「何、実はこの間死んだ、己《おら》の娘が来たんだがの、葬式《とむらい》の時、忘れて千ヶ寺詣《せんがじまい》りのなりで、やったものだから困るといって、今この通り、白衣《きもの》と納経《のうきょう》を置いて行って、お寺さんへ納めてくんろといいながら、浜の方さ、行ってしまっただよ」と談《はなし》された時には、子供|達《だち》は皆《みんな》震上《ふるえあが》って一同顔色を変えた、その晩はいとど物凄い晩なのに、今幽霊が来たというので、さあ子供|等《だち》は帰れないが、ここへ泊るわけにもゆかないので、皆一緒に、ぶるぶる震えながら、かたまって漸《ようや》くの思いをして帰ったとの事だが、こればかりは、老爺《おやじ》が窓のところへ起《たつ》て行って、受取《うけと》った白衣《びゃくえ》と納経《のうきょう》とを、眼《ま》の当《あた》り見たのだから確実の談《だん》だといって、私にはなしたのである。
底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房
2007(平成19)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「怪談会」柏舎書楼
1909(明治42)年発行
入力:門田裕志
校正:noriko sa
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