の比喩《ひゆ》を楽しむことができるのである。
 しかしながら、道教がアジア人の生活に対してなしたおもな貢献は美学の領域であった。シナの歴史家は道教のことを常に「処世術」と呼んでいる、というのは道教は現在を――われら自身を取り扱うものであるから。われらこそ神と自然の相会うところ、きのうとあすの分かれるところである。「現在」は移動する「無窮」である。「相対性」の合法な活動範囲である。「相対性」は「安排」を求める。「安排」は「術」である。人生の術はわれらの環境に対して絶えず安排するにある。道教は浮世をこんなものだとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なって、この憂《う》き世の中にも美を見いだそうと努めている。宋代《そうだい》のたとえ話に「三人の酢を味わう者」というのがあるが、三教義の傾向を実に立派に説明している。昔、釈迦牟尼《しゃかむに》、孔子、老子が人生の象徴|酢瓶《すがめ》の前に立って、おのおの指をつけてそれを味わった。実際的な孔子はそれが酸《す》いと知り、仏陀《ぶっだ》はそれを苦《にが》いと呼び、老子はそれを甘いと言った。
 道教徒は主張した。もしだれもかれも皆が統一を保つようにするならば人生の喜劇はなおいっそうおもしろくすることができると。物のつりあいを保って、おのれの地歩を失わず他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣《ひけつ》である。われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。この事を老子は「虚」という得意の隠喩《いんゆ》で説明している。物の真に肝要なところはただ虚にのみ存すると彼は主張した。たとえば室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見いだすことができるのであって、屋根や壁そのものにはない。水さしの役に立つところは水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。虚はすべてのものを含有するから万能である。虚においてのみ運動が可能となる。おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。全体は常に部分を支配することができるのである。
 道教徒のこういう考え方は、剣道|相撲《すもう》の理論に至るまで、動作のあらゆる理論に非常な影響を及ぼした。日本の自衛術である柔術はその名を道徳経の中の一句に借りている。柔術では無抵抗すなわち虚によって敵の力を出し尽くそうと努め、一方おのれの力は最後の奮闘に勝利を得るために保存しておく。芸術においても同一原理の重要なことが暗示の価値によってわかる。何物かを表わさずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強くひきつけてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる。虚は美的感情の極致までも入って満たせとばかりに人を待っている。
 生の術をきわめた人は、道教徒の言うところの「士」であった。士は生まれると夢の国に入る、ただ死に当たって現実にめざめようとするように。おのが身を世に知れず隠さんために、みずからの聡明《そうめい》の光を和らげ、「予《よ》として冬、川を渉《わた》るがごとく、猶《ゆう》として四隣をおそるるがごとく、儼《げん》としてそれ客のごとく、渙《かん》として冰《こおり》のまさに釈《と》けんとするがごとく、敦《とん》としてそれ樸《ぼく》のごとく、曠《こう》としてそれ谷のごとく、渾《こん》としてそれ濁るがごとし(二二)。」士にとって人生の三宝は、慈、倹、および「あえて天下の先とならず(二三)。」ということであった。
 さて禅に注意を向けてみると、それは道教の教えを強調していることがわかるであろう。禅は梵語《ぼんご》の禅那《ぜんな》(Dhyana)から出た名であってその意味は静慮《じょうりょ》である。精進《しょうじん》静慮することによって、自性了解《じしょうりょうげ》の極致に達することができると禅は主張する。静慮は悟道に入ることのできる六波羅密《ろっぱらみつ》の一つであって、釈迦牟尼《しゃかむに》はその後年の教えにおいて、特にこの方法を力説し、六則をその高弟|迦葉《かしょう》に伝えたと禅宗徒は確言している。かれらの言い伝えによれば、禅の始祖迦葉はその奥義を阿難陀《あなんだ》に伝え、阿難陀から順次に祖師相伝えてついに第二十八祖|菩提達磨《ぼだいだるま》に至った。菩提達磨は六世紀の前半に北シナに渡ってシナ禅宗の第一祖となった。これらの祖師やその教理の歴史については不確実なところが多い。禅を哲学的に見れば昔の禅学は一方において那伽閼剌樹那《ながあらじゅな》(二四)のインド否定論に似ており、また他方においては商羯羅阿闍梨《しゃんからあじゃり》の組み立てた無明《むみょう》観(
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