ムーア式華麗をつくした力作にも等しいような色彩の美や精巧をきわめたたくさんの装飾のために、建築構造の美が犠牲にせられているのを見る。
茶室の簡素清浄は禅院の競いからおこったものである。禅院は他の宗派のものと異なってただ僧の住所として作られている。その会堂は礼拝巡礼の場所ではなくて、禅修行者が会合して討論し黙想する道場である。その室は、中央の壁の凹所《おうしょ》、仏壇の後ろに禅宗の開祖|菩提達磨《ぼだいだるま》の像か、または祖師|迦葉《かしょう》と阿難陀《あなんだ》をしたがえた釈迦牟尼《しゃかむに》の像があるのを除いてはなんの飾りもない。仏壇には、これら聖者の禅に対する貢献を記念して香華《こうげ》がささげてある。茶の湯の基をなしたものはほかではない、菩提達磨の像の前で同じ碗《わん》から次々に茶を喫《の》むという禅僧たちの始めた儀式であったということはすでに述べたところである。が、さらにここに付言してよかろうと思われることは禅院の仏壇は、床の間――絵や花を置いて客を教化する日本間の上座――の原型であったということである。
わが国の偉い茶人は皆禅を修めた人であった。そして禅の精神を現実生活の中へ入れようと企てた。こういうわけで茶室は茶の湯の他の設備と同様に禅の教義を多く反映している。正統の茶室の広さは四畳半で維摩《ゆいま》の経文《きょうもん》の一節によって定められている。その興味ある著作において、馥柯羅摩訶秩多《びからまかちった》(二七)は文珠師利菩薩《もんじゅしりぼさつ》と八万四千の仏陀《ぶっだ》の弟子《でし》をこの狭い室に迎えている。これすなわち真に覚《さと》った者には一切皆空《いっさいかいくう》という理論に基づくたとえ話である。さらに待合から茶室に通ずる露地は黙想の第一階段、すなわち自己照明に達する通路を意味していた。露地は外界との関係を断って、茶室そのものにおいて美的趣味を充分に味わう助けとなるように、新しい感情を起こすためのものであった。この庭径を踏んだことのある人は、常緑樹の薄明に、下には松葉の散りしくところを、調和ある不ぞろいな庭石の上を渡って、苔《こけ》むした石燈籠《いしどうろう》のかたわらを過ぎる時、わが心のいかに高められたかを必ず思い出すであろう。たとえ都市のまん中にいてもなお、あたかも文明の雑踏や塵《ちり》を離れた森の中にいるような感がする。こう
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