に借りている。柔術では無抵抗すなわち虚によって敵の力を出し尽くそうと努め、一方おのれの力は最後の奮闘に勝利を得るために保存しておく。芸術においても同一原理の重要なことが暗示の価値によってわかる。何物かを表わさずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強くひきつけてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる。虚は美的感情の極致までも入って満たせとばかりに人を待っている。
 生の術をきわめた人は、道教徒の言うところの「士」であった。士は生まれると夢の国に入る、ただ死に当たって現実にめざめようとするように。おのが身を世に知れず隠さんために、みずからの聡明《そうめい》の光を和らげ、「予《よ》として冬、川を渉《わた》るがごとく、猶《ゆう》として四隣をおそるるがごとく、儼《げん》としてそれ客のごとく、渙《かん》として冰《こおり》のまさに釈《と》けんとするがごとく、敦《とん》としてそれ樸《ぼく》のごとく、曠《こう》としてそれ谷のごとく、渾《こん》としてそれ濁るがごとし(二二)。」士にとって人生の三宝は、慈、倹、および「あえて天下の先とならず(二三)。」ということであった。
 さて禅に注意を向けてみると、それは道教の教えを強調していることがわかるであろう。禅は梵語《ぼんご》の禅那《ぜんな》(Dhyana)から出た名であってその意味は静慮《じょうりょ》である。精進《しょうじん》静慮することによって、自性了解《じしょうりょうげ》の極致に達することができると禅は主張する。静慮は悟道に入ることのできる六波羅密《ろっぱらみつ》の一つであって、釈迦牟尼《しゃかむに》はその後年の教えにおいて、特にこの方法を力説し、六則をその高弟|迦葉《かしょう》に伝えたと禅宗徒は確言している。かれらの言い伝えによれば、禅の始祖迦葉はその奥義を阿難陀《あなんだ》に伝え、阿難陀から順次に祖師相伝えてついに第二十八祖|菩提達磨《ぼだいだるま》に至った。菩提達磨は六世紀の前半に北シナに渡ってシナ禅宗の第一祖となった。これらの祖師やその教理の歴史については不確実なところが多い。禅を哲学的に見れば昔の禅学は一方において那伽閼剌樹那《ながあらじゅな》(二四)のインド否定論に似ており、また他方においては商羯羅阿闍梨《しゃんからあじゃり》の組み立てた無明《むみょう》観(
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