が出て行つたか、伊勢の浜田屋弥兵衛の死亡の年月が不明のため、その辺の事は分らない。ただ長崎も江戸もみんな伊勢の浜田氏から出た一族であらうと思はれる。
 武蔵の住人でこの辺一たいの庄屋であつた浜田五良八は自分の一族に有名な浜田弥兵衛がゐたからといふ訳でなく、先祖からの家の通称浜田弥兵衛を自分も名のつただけの事と思はれる。長崎の浜田弥兵衛が貿易のために九州から呂宋や台湾まで渡つたのは家光の寛永時代で、武蔵の国の彼が死んだ宝暦五年までには百年位の時間が経過してゐる。長崎に今も残る浜田弥兵衛の子孫の家をたづねてみれば、伊勢と武蔵と長崎とのつながりを説明してもらへるかもしれない。戦争前に、東京四谷方面に浜田家の親戚がゐて、浜田山で浜田弥兵衛の祭をした時に立派な自動車に乗つて招ばれて来たといふ話をきいた。昔の豊島郡内藤町に現代まで残つてゐた浜田家の人であらう。その人が今も生きてゐれば、長崎と武蔵豊島の関係も教へてもらへる事とおもふ。
 同族の二人の浜田弥兵衛が西と東にゐて、彼等各自の世界に彼等の力いつぱいの仕事をしてゐたと考へるのは愉快なことである。さういふ事を私が言ひ出して浜田山の土地の人たちの
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