、彼も若い人であるし浜田家の昔からの菩提所ではないのだから、古い事は知つてゐないかもしれなかつた。本堂のうらにこの寺の広い墓地があるけれど、浜田家の墓はそことは別に、門を入つて本堂に向つた右手の樹木のしげみに二つの石碑が立つてゐた。新しい石であつても、雨かぜに曝されて墓の表の字は読みにくかつた。右の方の墓には何々院何々居士と並んで何々院何々大姉と彫られてあるから浜田夫妻の墓である。石の裏面には「武州豊島郡内藤宕上町 俗名浜田五良八事 浜田弥兵衛生年三十九歳」とあつて、石の側面に「宝暦五年乙亥六月初七日」とある。つまり浜田五良八なる通称浜田弥兵衛がその宝暦五年に三十九で死んだのである。並んで立つてゐる左手の石は表の字がまるきり読めない、裏面には、生国 伊勢三重郡浜田住 俗名浜田屋[#「屋」に傍点]弥兵衛とあつて死亡の年月は彫られてゐない。たぶんこの伊勢国三重郡浜田(今の三重県四日市)にゐた浜田屋弥兵衛が浜田家の先祖であつたのだらう。この浜田屋から長崎に渡つて長崎商人となつた人の家に浜田弥兵衛が生れ出たのか、伊勢の浜田屋から江戸方面に出て来て、豊島郡内藤町に住みついた家から長崎に浜田弥兵衛が出て行つたか、伊勢の浜田屋弥兵衛の死亡の年月が不明のため、その辺の事は分らない。ただ長崎も江戸もみんな伊勢の浜田氏から出た一族であらうと思はれる。
武蔵の住人でこの辺一たいの庄屋であつた浜田五良八は自分の一族に有名な浜田弥兵衛がゐたからといふ訳でなく、先祖からの家の通称浜田弥兵衛を自分も名のつただけの事と思はれる。長崎の浜田弥兵衛が貿易のために九州から呂宋や台湾まで渡つたのは家光の寛永時代で、武蔵の国の彼が死んだ宝暦五年までには百年位の時間が経過してゐる。長崎に今も残る浜田弥兵衛の子孫の家をたづねてみれば、伊勢と武蔵と長崎とのつながりを説明してもらへるかもしれない。戦争前に、東京四谷方面に浜田家の親戚がゐて、浜田山で浜田弥兵衛の祭をした時に立派な自動車に乗つて招ばれて来たといふ話をきいた。昔の豊島郡内藤町に現代まで残つてゐた浜田家の人であらう。その人が今も生きてゐれば、長崎と武蔵豊島の関係も教へてもらへる事とおもふ。
同族の二人の浜田弥兵衛が西と東にゐて、彼等各自の世界に彼等の力いつぱいの仕事をしてゐたと考へるのは愉快なことである。さういふ事を私が言ひ出して浜田山の土地の人たちの夢を破るのは済まないと思ふけれど、武蔵野のひろい松山の中の家にむかし生きてゐた人に私は深い親しみを感じて、私たちが往来する浜田山の土を踏んで三十九年間生きて働いてゐたその人の霊を祝福したいやうに思ふのである。
底本:「燈火節」月曜社
2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:富田倫生
2008年10月14日作成
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