の名を記念してこの土地を浜田山といふやうになつたといふ話であつた。浜田家はそれほど大へんな豪家ではなく、浜田山だけでは八町八反の地主であつたが、ほかが小さい農家ばかりであつたから、この辺の庄屋の家であつたのだらう。
浜田家のお稲荷さんはこの辺全部の鎮守様みたいなもので、そのお稲荷さんに遠慮して浜田山には一つのお寺もなく神様もないのだと聞いてゐるが、本当かどうか知らない。しかしいちばん近い寺は西永福と永福町とにある。昭和二十年この浜田家の屋敷跡の松山を軍の方で買ひ上げて油の貯蔵所を造り、南と北の入口に番兵が立つやうになつてから、私たちはもう自由にこの松山の草みちを通行ができなくなつた。永福町が焼けたその同じ夜にこの松山にも火が堕ちて油の倉庫が焼けた。黒い煙がまる二日立ちつづけてゐた。その黒けむりを見て「まだ焼けてゐる、まだ焼けてゐる。ずゐぶんたくさん油があつたのだ!」と私たちは感歎したり驚いたりしてゐると、三日経つて煙が消えた。松の大樹が何十本か焼けてしまつた。
その時から五六年も経つて、世の中はとにかく平和になつてゐるが、生活は苦しく忙しく浜田山のいはれなぞ考へることもなく暮してゐた。昨年のこと、ある友人から浜田弥兵衛の話は何かのまちがひではないかと言はれた。武蔵の国の住人が長崎の町人になつて御朱印船を乗り廻したり、台湾であばれたり、あれだけすばらしい働きをしてもう一度うまれ故郷(?)に帰つて隠居をして死んだとも思はれない。あるひはずつと若い少年時代にこの土地を出て行つたのだとも思はれない、長崎の町には浜田家の子孫が今も栄えてゐるといふ話で、何かぴつたりゆかないやうだと言はれた。さういふ事をくはしく訊いて見ようにも浜田山の人はみんな年がわかいのである。私たちの隣家の主人の祖父の時代に浜田弥兵衛の何百年祭とかをしたといふ話で、この土地の事を細かく知つてゐる八十以上の老人がまだ一人この村に生き残つてゐるから、或はその人が何か知つてゐるだらうと言はれたが、私はその家まで訪ねて行く熱心さを持つてゐない。同じ浜田でもちがつた浜田でも少しも差支ないとさへ思ふのだが、それでもお墓参りに行つてみた。軍が浜田家の松山を買つた時、土地の人たちが墓碑を西永福の理性寺に移したといふので、そこへ行つた。古い石でなく新しい墓が立つてゐた。理性寺の住職は折あしく不在で何も話をきかれなかつたが
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