たくであると言つてゐたから、片道だけ車にのるのは母の親切によつたので、そんな風にして先生のお宅に通ふといふことはよほど歌が好きだつたためで、つまり文学少女なのだつた。
また或る日は小川町から神保町を通り賑やかな店々を見て――その中でも半襟屋をのぞくことは愉しかつた。本屋はのぞかなかつたやうである――それから九段坂をのぼり、お堀ばたを歩いて半蔵門や麹町通りを横眼に見ながらだらだら坂に来てから右に折れて、麹町隼町に出る、そのつぎが永田町の高台だつたと思ふ、こんな事を考へてゐると車屋さんか運転手みたいだけれど、じつによくも歩いた、一時間と二十分ぐらゐの道であつた。(この中に神田の店々をのぞく時間もはいつてゐる。)むろん晴天の日ばかりであつたが、雨の時お休みしたのかどうか、はつきり覚えてゐない。
さてそんなに遠路を歩いて、下駄はどんな物を履いてゐたか、履物のことは少しも思ひ出せない。どうせふだんの物だから立派な品ではなかつたらうけれど、表がついてゐたかどうかも忘れてしまつた。履物はいつも母が自分のや私たち姉妹のを一しよに赤坂の平野屋で買つて来たやうだつた。その時分は草履は流行でなかつたから、とにかく、どんな下駄にしても、下駄にはちがひない。
その二三年後のこと、先生のお弟子の中ではだいぶふる顔になつてゐた私はお花見がてら春の野遊びの会といふのに誘つて頂いた。先生御夫妻と、そのほか六七人、川田順さんがいちばん年少者で十八ぐらゐであつたと思ふ。どこの駅からどんな風に乗つたか、たぶん立川で降りたと思ふ、山吹の咲いた田舎道を曲がりまがり歩いて多摩川べりに下りてゆき、筏の上や川原の石ころの上でお弁当をたべた、そのあと何処をどんな風に歩いたものか、小金井のお花見をしたのはその同じ日であつたか、それとも翌年の春であつたか記憶が混乱してはつきりしないが、最後に中央線牛込駅で降りたのは夜になつてからで、みんなで九段の上まで歩いて富士見軒で夕食をした。私だけは永田町までの夜みちを一人歩かせるのはいけないとあつて人力を呼んで下すつたが、あとの人たちはみんな九段坂を下りて歩いて帰つた。川田さんだけは牛込の方に。そんなやうに朝から夜まで歩き廻つても別に足の腫れた人もなかつたやうで、習慣や気分のせゐであつたらう。
近年になつて、戦争中電車のうごかない時、東京の主婦たちは一日に何里かの道をあるい
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