もので、少し怖いのである。けものといふ字が本当に彼等を形容する。じつに見事な猫たちで、二匹は何か私の方を気がかりさうに見て、のそのそ歩き廻り、こちらを時々見てゐる。二ひきはぐうぐう寝てゐる、一匹はたいそう不機嫌で、丸くなつて網の中にうづくまつてゐる。
「お猫さんたちや、この広いお庭の中で、あなたたちと熊さんがいちばん好きです」とペルシヤ猫に言つた。
 帰らうとしてまた出口の猿のところまで来た。ほんとうに群がりうごく猿の島である。やや疲れたらしく夕日にうづくまつてゐるものが多い。彼等のいしきがどれもどれも赤い。向ふの山のもみぢよりもずつと赤く、もつと現実味の赤である、それをみんながこちらに向けてゐる、いきにも帰りにもにんじんを買つてくれないなんて、ぼんやりなお客だね。そんな奴、臀を向けてやれと一ぴきの猿が言ひ出して猿から猿にさう言つたらしく、猿が島じうの猿がことごとく私たちに臀を向けてゐた。人間はまことにぼんやりの動物であるが、全体のストには気がついてすつかり照れて帰つて来た。

 昭和十八年の春、四月の中ごろ私はまた仙台に行つた。黒磯あたりの桜が満開で、東京では見られない濃艶ないろを見せてゐた。神国とかみそぎとか訓練といふような言葉ばかし東京で聞いてゐる身には、むかしの昔から日本に咲いたであらう花々をながめ、遠い北の空にあたらしい雪を頂いた高い山々の姿なぞ見てゐるとき、自分がむかしの世に生きてゐるのか、現代を通り過ぎた明日の世界にふみ入つてゐるのか、ぼんやりした気もちで四方の景色を見て過ぎた。平野の人の住む村ざとには桃やこぶしが紅く白く咲きあふれて、都から出て来たものに殊に季節のにほひを深く感じさせた。
 仙台の家では白猫がびつくりするほど大きくなつて、いろいろな芸をするやうになつてゐた。私のにほひを嗅いで、一年間わかれてゐた友達をおもひ出したやうである。
 塩釜様のお宮の桜が今ちやうど盛りだといふことだつたが、まづそれより一歩近いところにと言つて、翌日は躑躅が丘に行つてみた。電車を下りてからすこし昇つて行くのである、仙台の何師団かが占領して、広い丘の半分以上は兵隊さんがあちらこちらに立つてゐたが、それにもかかはらず丘のしだれ桜は美しかつた。今までどこかの庭にしだれ桜が稀に一本ぐらゐ咲いてゐるのを見ただけの眼には、この公園全部に咲きみだれてゐる花を見ることは珍らしか
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