終戦の秋軽井沢から浜田山に帰つて、荒れはてた庭を少しづつ草をとつて片づけてゐると、隣家との堺に小さい棗の芽生の二尺ぐらゐの高さのものを見出した。あらつ! 棗がある! 私は思はず声を上げて、同居のわかい人を呼んだ。この木は大森から持つて来たのでせうか、あなた覚えてゐる? と訊いてみた。彼女はお引越しの時あまり沢山いろんな物をトラックに載せて来たので、棗を持つて来たかどうかはつきり覚えてゐないと言つた。引越しより前に一度、四月の末ごろグラジオラスの球根といちごの株を持つて彼女と二人でこの庭に植ゑに来たことがあつた。そのとき棗の芽生の中位な大きさのを持つて来たのではなかつたかしらと考へてみたが、どうもはつきり思ひ出せなかつた。その木は隣家と私の家との境界の石のすぐそばに、一寸か二寸向うの家の方に入り込んで立つてゐる。その時分防火訓練のために双方の家の生垣はとりこはされてしまつたが、境界石がすぐ見えるから、私が持つて来たものなら石より此方側にうゑたらう、やはり隣家で小さい芽生を植ゑたのであつたらうとも思つた。隣家の人たちは栃木県に疎開してそれきり帰らず、今は新しい持主が住んでゐるので訊くことも出来なかつたが、翌年になつて御主人の勤務先が変つたので、家を売つて京都に引越すことになつた。私はこの機会に心ばかりのお別れの贈物をして、その代り記念として庭のしげみに隠れてゐるあの棗の木をいただくことにした。あら、まあ、棗がありましたのねと、奥さんはそんな小さい木があることさへ知らず、それでは、私たちを思ひ出して頂戴と、快く私の庭にうゑつけてその翌日立つて行つた。
もうそれから四年経つて棗はずゐぶん育つた。人間の齢でいへば十七八ではないかしら? 一昨年から私はその実をたべ始めた、と言つてもほんの二つか三つぐらゐ。昨年は十つぶか、もつと余計に食べた。今年も白い花を充分つけてゐる。老年になつた私は子供の時のやうにもう一度木の下に立つて愉快に木の実を食べることが出来る。それをたべながら私は祖父の家の古い棗を考へる。米倉の白い壁も鶏どもの赤い鳥冠も。追憶は私自身の大森の家の大きな棗とその廻りの芽生を思ひ出させる。あの木に私の大事な赤猫が駈け上がつて遊んだこともある。青ぞらにもずがやかましく鳴いた日であつた。古い本の頁のやうに、あけて見ればいろいろな事がある、三本の棗の木と私の生活のうつり
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