でくれる人を探すと、ある男が来て荷物を背負つてくれたが、ひどく酔つぱらつてゐて町までの近みちだと言つて、くずれかけた建物や古い船の破片なぞ散らばつてゐる中をさまよひ歩いて、しまひにはシングの荷物を投げおろしてその上に腰かけてしまつた。「ひどく重い荷物だねえ、金《かね》がはいつてるんだらう?」「とんでもない、本ばかりさ」「やれやれ、これがみんな金《かね》だつたら、今夜ガルウエイで、だんなと二人ですばらしい宴会がやれるんだがなあ」三十分も休んでやうやくのこと、シングは彼に荷物を背負はせて町にたどりついたのである。まだ名もなく、わかいシングは身がるで放浪者のやうでもあつた。
しかし、彼はついにダブリンに落着き、新しく建てられるアイルランド文芸座のためにイエーツやグレゴリイ夫人と共に劇作することになつた。それは一九〇二年ごろである、初めて書いたのが「海に行く騎手《のりて》」であつた。これは荒い海と闘ふ漁師たちの生活をアラン島の人々の言葉で書いたもの。それを手はじめに「谷かげ」「聖者の泉」「西の人気者」など矢つぎばやに書いたが、あまり丈夫でなかつた彼はひどく健康をいため、一九〇九年、三十七の年
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