まどはしの四月
片山廣子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お上《かみ》の
−−

 その小説はエンチヤンテッド・エプリル(まどはしの四月)といふ題であつたとおぼえてゐる。大正のいつ頃だつたか、もう三十年も前に読んで、題までも殆ど忘れてゐたが、二三日前にふいと思ひ出した。ロンドンで出版されて当時めづらしいほどよく売れた大衆もので、作者の名も今はわすれた。
 郊外に住む中流の家庭の主婦が街に買物に出たかへりに、自分の属してゐる婦人クラブに寄つてコーヒーを飲み、そこに散らばつてゐた新聞を読む。新聞の広告欄に「イタリヤの古城貸したし、一ヶ月間。家賃何々。委細は○○へ御書面を乞ふ」と珍らしい広告文であつた。それを読んだその奥さんはごく内気な、まるで日本の古いお嫁さんみたいな古い女であつたが、さびしい地味な家庭生活の中で、彼女がかうもしたい、ああもしたいと心のしん底でいつも思つてゐた事の一つがその時首をもちやげたのだつた。空想はその瞬間にイタリヤの古城に飛んで、何がしかの家賃を払つて、その古城を借り夢にも見たことのないイタリヤの四月の風光をまのあたり見たいと思ひ立ち、さて家賃を考へる。さうしてゐるところへ顔なじみのクラブ会員がまた新聞室にはいつて来る。今まで少しの交際もしなかつた夫人であるけれど、内気の夫人はこの人にその広告を見せる。「あなたこの古城に行つて見たいとお思ひになりませんか? 私たち二人でこの家賃を払つて?」その夫人もたちまちイタリヤに行きたくなる。二人は永年の親友のやうに仲よく並んで腰かけて細かくお金の計算をする。旅費、食費、家賃、それにコツクさんもお城に留守居してゐるから、彼女にも心付が入る、等々。二人の夫人は何かの時の用意に預けて置いた貯金を引出して、一生の思ひ出に今それを使つても惜しくないと思ふけれど、それにしてもお金がすこし足りない、彼等おのおのの夫には秘密にこの計画を実行したいと思ふので、くるしい工夫をする、どうしても足りない。
 折しもこの室へわかい美しい会員がはいつて来る。考へこんで困つてゐた二人の奥さんはこの人に相談をかける。令嬢はびつくりするが、少し考へて忽ちその仲間にはいる。彼女はほんとうはなにがし侯爵令嬢でロンドン社交界の花形なのであるが、中流の地味な生活者の主婦たちは彼女を知らない。令嬢は想はぬ人におもはれて
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
片山 広子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング