ぶん武蔵野も北寄りのこの辺はさういふ山の木があるに違ひないけれど、私はまだ見てゐない。むろん食べたこともないが、夏山のうつくしい香りがしてほんのりにがいもので、胡麻あへにするとおいしいさうである。うこぎのやうににがみはないが、くこの葉も好いにほひがして、まぜ御飯にするとおいしい。これは醤油でなく塩味だと白と青の色がきれいに見える。むかし私が生まれて育つた麻布の家の北向きの崖には垣根といふほどでなく、くこ[#「くこ」に傍点]の灌木がいつぱい繁つてゐて、夕御飯のためにみんなで摘んだのを今も愉しくおもひ出す。赤い実がきれいであつたが、どんな味がしたか覚えてゐない。
 山うども清々しい苦みがあつて山の香りが強い。おいしい煮物であり、和へものでもあるが、畑のものは山うどのやうに細かな濃厚な味がない。朝の食事にパンをたべる人がうどを皮をむいてタテに割つて生のまま塩をつけて食べる時ほんとうに春の味がするといふ。うどに生椎茸とむつの子のうま煮を白い白い御飯と食べたのは春や昔のことである。
 山の草や野菜ではないけれど、毎日いただくお茶は香りとにがみを頂くのである。おうす[#「うす」に傍点]にしろお濃い茶にしろ、あの甘いにほひとにがみがなかつたら、茶道なんてものはないのだらう。ほうじ茶やばん茶、これは香ばしいだけでにがみがない、ずゐぶん間がぬけてゐるやうでも、それはそれで、温かい香ばしい飲物である。コーヒーのやうな強烈な香りの飲物を毎日いただく余裕のない時や胃の弱いときに、コーヒーの身がはりにほうじ茶を濃く熱く煮出して飲むと、ほんの少しだけ咽のどこかの感じがたのしくされる。たいそうほうじ茶とばん茶の悪口をいふやうだけれど、出からしのおせん茶のなまぬるいのを飲むよりどんなにおいしいか分らない。これはやはり贅沢な関東人の智慧が考へ出したものに違ひない。地方の質素な古風な家庭で育つた人なぞはお客さんの咽の感じなぞを考へることは教へられてゐないで、その生ぬるい薄いおせん茶を何度でも何度でも注いで出す。お茶を出すといふことが昔から日本人のホスピタリティであつて、奥さんみづからが立派な古めいたきうすに銀びんのお湯を注いで替へてくれるお茶は大へんなホスピタリティにちがひない。おせん茶の法式がどんなものか知らないが、出からしはたしかに本当の式ではないだらう。世の中すべてアプレになつてこの頃はそんな念
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