、そのまゝの牛肉屋|常磐《ときは》の門前から斜に堤を下り、やがて真直に浅草公園の十二階下に出る千束町二三丁目の通りである。他の一筋は堤の尽きるところ、道哲《だうてつ》の寺のあるあたりから田町へ下りて馬場へつゞく大通である。電車のない其時分、廓へ通ふ人の最も繁く往復したのは、千束町二三丁目の道であつた。
 この道は、堤を下《おり》ると左側には曲輪の側面、また非常門の見えたりする横町が幾筋もあつて、車夫や廓者などの住んでゐた長屋のつゞいてゐた光景は、「たけくらべ」に描かれた大音寺前の通りと変りがない。やがて小流れに石の橋がかゝつてゐて、片側に交番、片側に平野といふ料理屋があつた。それから公園に近くなるにつれて商店や飲食店が次第に増えて、賑な町になるのであつた。
 震災の時まで、市川猿之助君が多年住んでゐた家はこの通の西側に在つた。酉の市の晩には夜通し家を開け放ちにして通りがゝりの来客に酒肴《さけさかな》を出すのを吉例としてゐたさうである。明治三十年頃には庭の裏手は一面の田圃であつたといふ話を聞いたことがあつた。さればそれより以前には、浅草から吉原へ行く道は馬道の他《ほか》は、皆《みな》田間《でんかん》の畦道であつた事が、地図を見るに及ばずして推察せられる。
「たけくらべ」や「今戸心中」のつくられた頃、東京の町にはまだ市区改正の工事も起らず、従つて電車もなく、また電話もなかつたらしい。「今戸心中」をよんでも娼妓が電話を使用するところが見えない。東京の町々はその場処々々によつて、各固有の面目を失はずにゐた。例へば永代橋辺と両国辺とは、土地の商業をはじめ万事が同じではなかつたやうに、吉原の遊里もまたどうやらかうやら伝来の風習と格式とを持続して行く事ができたのである。
 泉鏡花の小説「註文帳」が雑誌新小説に出たのは明治三十四年で、一葉柳浪二家の作におくれること五六年である。二六新報の計画した娼妓自由廃業の運動はこの時既に世人の話柄となつてゐたが、遊里の風俗は猶依然として変る所のなかつた事は、「註文帳」の中に現れ来る人物や事件によつても窺ひ知ることが出来る。
「註文帳」は廓外の寮に住んでゐる娼家の娘が剃刀の祟でその恋人を刺す話を述べたもので、お歯黒溝に沿うた陰鬱な路地裏の光景と、こゝに棲息して娼妓の日用品を作つたり取扱つたりして暮しを立てゝゐる人達の生活が描かれてゐる。研屋《とぎや》の店先とその親爺との描写は此作者にして初めて為し得べき名文である。わたくしは「今戸心中」が其時節を年の暮に取り、「たけくらべ」が残暑の秋を時節にして、各その創作に特別の風趣を添へてゐるのと同じく、「註文帳」の作者が篇中その事件を述ぶるに当つて雪の夜を択んだことを最も巧妙なる手段だと思つてゐる。一立斎広重の板画について、雪に埋れた日本堤や大門外の風景をよろこぶ鑑賞家は、鏡花子の筆致の之に匹如たることを認めるであらう。
 鉄道馬車が廃せられて電車に替へられたのは、たしか明治三十六年である。世態人情の変化は漸く急激となつたが、然し吉原の別天地は猶旧習を保持するだけの余裕があつたものと見え、毎夜の張見世《はりみせ》は猶廃止せられず、時節が来れば桜や仁和賀《にはか》の催しも亦つゞけられてゐた。
 わたくしは此年《このとし》から五六年、図らずも羇旅の人となつたが、明治四十一年の秋、重ねて来り見るに及んで、転た前度の劉郎たる思ひをなさねばならなかつた。仲《なか》の町《ちやう》にはビーヤホールが出来て、「秋信先通ず両行の灯影」といふやうな町の眺めの調和が破られ、張店《はりみせ》がなくなつて五丁町《ごちやうまち》は薄暗く、土手に人力車の数の少くなつた事が際立つて目についた。明治四十三年八月の水害と、翌年《あくるとし》四月の大火とは遊里と其周囲の町の光景とを変じて、次第に今日の如き特徴なき陋巷に化せしむる階梯をつくつた。世の文学雑誌を見るも遊里を描いた小説にして、当年の傑作に匹疇すべきものは全くその跡を断つに至つた。
 遊里の光景と風俗とは、明治四十二三年以後に在つては最早やその時代の作家をして創作の感興を催さしむるには適しなくなつたのである。何が故に然りと云ふや。わたくしは一葉柳浪鏡花等の作中に現れ来《きた》る人物の境遇と情緒とは、江戸浄瑠璃中のものに彷彿としてゐる事を言はねばならない。そして又、それ等の人物は作家の趣味から作り出されたものでなく、皆実在のものをモデルにしてゐた事も一言して置かねばならない。こゝに於いてわたくしは三四十年以前の東京に在つては、作者の情緒と現実の生活との間に今日では想像のできない美妙なる調和が在つた。この調和が即ち斯くの如き諸篇を成さしめた所以である事を感じるのである。
 明治三十年代の吉原には江戸浄瑠璃に見るが如き叙事詩的の一面が猶実在してゐた。「今戸心中」、「たけくらべ」、「註文帳」の如き諸作はこの叙事詩的の一面を捉へ来つて描写の功を成したのである。「たけくらべ」第十回の一節はわたくしの所感を証明するに足りるであらう。

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春は桜の賑ひよりかけて、なき玉菊が灯籠の頃、つゞいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶこと此通りのみにて七十五輌と数へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉田圃に乱るれば、横堀に鶉なく頃も近《ちかづ》きぬ。朝夕の秋風身にしみ渡りて、上清《じやうせい》が店の蚊遣香懐炉灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそゞろ哀れの音を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟かとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細道に落ちかゝるやうな三味の音を仰いで聞けば、仲之町芸者が冴えたる腕に、君が情の仮寐の床にと何ならぬ一ふしあはれも深く、此時節より通ひ初《そ》むるは浮かれ浮かるゝ遊客ならで、身にしみ/″\と実のあるお方のよし、遊女《つとめ》あがりのさる人が申しき。
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 一葉が文の情調は柳浪の作中について見るも更に異る所がない。二家の作は全く其形式を異にしてゐるのであるが、其情調の叙事詩的なることは同一である。「今戸心中」第一回の数行を見よ。

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太空《そら》は一片の雲も宿《とゞ》めないが黒味渡ツて、廿四日の月は未だ上らず、霊あるが如き星のきらめきは、仰げば身も冽《しま》る程である。不夜城を誇顔の電気灯は、軒より下の物の影を往来へ投げて居れど、霜枯三月《しもがれみつき》の淋しさは免れず、大門から水道尻まで、茶屋の二階に甲走ツた声のさゞめきも聞えぬ。
明後日が初酉の十一月八日、今年は稍|温暖《あたゝか》く小袖を三枚《みツつ》重襲《かさね》る程にもないが、夜が深けては流石に初冬の寒気《さむさ》が感じられる。
少時前《いまのさき》報《う》ツたのは、角海老《かどえび》の大時計の十二時である。京町には素見客《ひやかし》の影も跡を絶ち、角町《すみちやう》には夜《よ》を警《いまし》めの鉄棒《かなぼう》の音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店にも稍|雑談《はなし》の途断《とぎ》れる時分となツた。
廊下には上草履の音がさびれ、台の物の遺骸を今|室《へや》の外へ出して居る所もある。遥かの三階からは甲走ツた声で、喜助どん/\と床番を呼んで居る。
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 遊里の光景と其生活とには、浄瑠璃を聴くに異らぬ一種の哀調が漲つてゐた。この哀調は、小説家が其趣味から作り出した技巧の結果ではなかつた。独り遊里のみには限らない。この哀調は過去の東京に在つては繁華な下町にも、静な山の手の町にも、折に触れ時につれて、切々として人の官覚を動す力があつた。然し歳月の過《すぐ》るに従ひ、繁激なる近世的都市の騒音と灯光とは全くこの哀調を滅してしまつたのである。生活の音調が変化したのである。わたくしは三十年前の東京には江戸時代の生活の音調と同じきものが残つてゐた。そして、その最後の余韻が吉原の遊里に於て殊に著しく聴取せられた事をこゝに語ればよいのである。
 遊里の存亡と公娼の興廃の如きはこれを論ずるに及ばない。ギリシヤ古典の芸術を尊むがために、誰か今日、時代の復古を夢見るものがあらう。
[#地から1字上げ]甲戌十二月記



底本:「日本の名随筆 別巻15 色街」作品社
   1992(平成4)年5月25日第1刷発行
   1997(平成9)年2月20日第4刷発行
底本の親本:「荷風全集 第一七巻」岩波書店
   1964(昭和39)年7月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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