音寺は昭和の今日でも、お酉様の鳥居と筋向ひになつて、もとの処に仮普請の堂を留《とゞ》めてゐるが、然し周囲の光景があまりに甚しく変つてしまつたので、これを尋ねて見ても、同じ場処ではないやうな気がする程である。明治三十年頃、わたくしが「たけくらべ」や「今戸心中」をよんで歩き廻つた時分のことを思ひ返すと、大音寺の門は現在電車通りに石の柱の立つてゐる処ではなくして、別の処に在つて其向きも亦ちがつてゐたやうである。現在の門は東向きであるが、昔は北に向ひ、道端からずつと奥深い処に在つたやうに思はれるが、然しこの記憶も今は甚だおぼろである。その頃お酉様の鳥居前へ出るには、大音寺前の辻を南に曲つて行つたやうな気がする。辻を曲ると、道の片側には小家のつゞいた屋根のうしろに吉原の病院が見え、片側は見渡すかぎり水田のつゞいた彼方に太郎稲荷の森が見えた。吉原田圃はこの処を云つたのである。裏田圃とも、また浅草田圃とも云つた。単に反歩《たんぼ》とも云つたやうである。
 吉原田圃の全景を眺めるには廓内京町《くわくないきやうまち》一二丁目の西側、お歯黒溝に接した娼楼の裏窓が最も其処《そのところ》を得てゐた。この眺望は幸にして「今戸心中」の篇中に委しく描き出されてゐる。即ち次の如くである。

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忍ヶ岡と太郎稲荷の森の梢には朝陽《あさひ》が際立ツて映《あた》ツて居《ゐ》る。入谷は尚ほ半分靄に包まれ、吉原田甫は一面の霜である。空には一群《ひとむれ》/\の小鳥が輪を作ツて南の方へ飛んで行き、上野の森には烏《からす》が噪ぎ始めた。大鷲《おほとり》神社の傍《そば》の田甫の白鷺が、一羽起ち二羽起ち三羽立つと、明日の酉の市の売場に新らしく掛けた小屋から二三|個《にん》の人がは見《あら》はれた。鉄漿溝は泡立ツた儘凍ツて、大音寺前の温泉の烟は風に狂ひながら流れてゐる。一声の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る/\中に岡の裾を繞ツて、根岸に入ツたかと思ふと、天王寺の森に其煙も見えなくなツた。
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 この文を読んで、現在はセメントの新道路が松竹座の前から三ノ輪に達し、また東西には二筋の大道路が隅田川の岸から上野谷中の方面に走つてゐるさまを目撃すると、曾て三十年前に白鷺の飛んでゐたところだとは思はれない。わたくしがこの文についてこゝに註釈を試みたくなつたのも、滄桑の感に堪へない余りである。
「忍《しのぶ》ヶ|岡《をか》」は上野谷中の高台である。「太郎稲荷」はむかし柳河藩主立花氏の下屋敷に在つて、文化のころから流行《はや》りはじめた。屋敷の取払はれた後、社殿と其周囲の森とが浅草|光月町《くわうげつちやう》に残つてゐたが、わたくしが初めて尋ねて見た頃には、其社殿さへわづかに形《かた》ばかりの小祠になつてゐた。「大音寺前の温泉」とは普通の風呂屋ではなく、料理屋を兼ねた旅館ではないかと思はれる。其名前や何かは之を詳にしない。当時入谷には「松源《まつげん》」、根岸に「塩原《しほばら》」、根津に「紫明館《しめいくわん》」、向島に「植半《うゑはん》」、秋葉に「有馬温泉」などいふ温泉宿があつて、芸妓をつれて泊りに行くものも尠くなかつた。「今戸心中」はその発表せられたころ、世の噂によると、京町二丁目の中米楼《なかごめろう》に在つた情死を材料にしたものだと云ふ。然し中米楼は重に茶屋受の客を迎へてゐたのに、「今戸心中」の叙事には引手茶屋のことが見えてゐない。その頃裏田圃が見えて、そして刎橋のあつた娼家で、中米楼についで稍格式のあつたものは、わたくしの記憶する所では京二の松大黒《まつだいこく》と、京一の稲弁《いなべん》との二軒だけで、其他は皆|小格子《こがうし》であつた。
「今戸心中」が明治文壇の傑作として永く記憶せられてゐるのは、篇中の人物の性格と情緒とが余す所なく精細に叙述せられてゐるのみならず、又妓楼全体の生活が渾然として一幅の風俗画をなしてゐるからである。篇中の事件は酉の市の前後から説き起されて、年末の煤払ひに終つてゐる。吉原の風俗と共に情死の事を説くには最も適切な時節を択んだところに作者の用意と苦心とが窺はれる。わたくしはこゝに最終の一節を摘録しやう。

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小万《こまん》は涙ながら写真と遺書《かきおき》とを持つたまゝ、同じ二階の吉里《よしざと》の室《へや》へ走ツて行ツて見ると、素より吉里の居《を》らう筈がなく、お熊を始め書記《かきやく》の男と他《ほか》に二人ばかり騒いでゐた。小万は上《かみ》の間《ま》に行ツて窓から覗いたが、太郎稲荷、入谷、金杉あたりの人家の灯火《ともしび》が散見《ちらつ》き、遠く上野の電気灯が鬼火《ひとだま》の様に見えて居るばかりである。
次の月の午時頃《ひるごろ》、浅草警察署の手で、今戸の橋
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