。もし芸術上これを非とするならばその罪は大衆小説家の負うべき所だといっても差閊《さしつかえ》はないであろう。
女の裸体ダンスを見せる事について思出したことがあるから、ここに補って置く。それは大正十年頃、東京市中にダンス場ができ始めた頃である。新橋赤坂辺の茶屋の座敷で、レコードの伴奏で裸体ダンスを見せる女があった。一時評判になって前の日から口を掛けて置かなければ呼んでも来られないというほどの景気であった。裸体を見せる女は芸者ではないが、商売上名義だけ芸者ということになっていたので、見たいと思うお客は馴染《なじみ》の茶屋から口をかけて呼んでもらうのである。一座敷時間は十分間ぐらいで、報酬は拾五円が普通、それ以上御好みのきわどい[#「きわどい」に傍点]芸をさせるには二、三十円であった。その当時、最初はこの女一人であったがほどなく新橋|南地《なんち》の新布袋家《しんほていや》という芸者家からも、同じようなダンスを見せる女が現れた。間もなく震災があって、東京の市街は大方《おおかた》焼けてしまったので、裸体ダンスの噂もなくなったが、昭和になってから向島、平井町、五反田あたり新開町の花柳界には以前新橋赤坂で流行したようなダンスを見せる芸者が続々として現れるようになったという話をきいた。浅草の興行街で西洋風のレヴューがはやり初めたのも昭和になってからの事で、震災頃までは安木節《やすぎぶし》の踊や泥鰌《どじょう》すくいが人気を集めていたのであるが、一変して今見るような西洋風のダンスになったのである。(震災前後金龍館で興行していたオペラがあったがその一座はレヴューの流行する前に解散された。)
裸体の流行は以上の如く戦争後に始めて起った事であるが、西洋ではむかしからあったものであろう。私が西洋にいたのは今から四十年前の事だが、裸体なぞはどこへ行っても見られるから別に珍しいとも思わなかった。女郎屋へ上って広い応接間に案内されると、二、三十人裸体になった女が一列になって出て来る。シャンパンを抜いてチップをやると、女たちは足を揃えて踊って見せるのだ。巴里《パリー》のムーランルージュという劇場は廊下で食事もできる。酒も飲める。食事をしながら舞台の踊を見ることができるようになっていた。また廊下から地下室へ下りて行くと、狭い舞台があって、ここでは裸体の女の芸を見せる。しかしこういう場所の話は公然人前ではしないことになっている。下宿屋の食堂なんぞでもそんな話をするものはない。オペラやクラシック音楽の話はするけれども、普通のレヴューや寄席《よせ》の話さえ食事のテーブルなどで、殊に婦人の前などでは口にしてはならない。これが西洋の習慣なのである。日本ではあることないこと何でも構わずに素《す》ッ破《ぱ》ぬく事は悪いことでも耻ずべき事でもないとされている。私はこれも習慣の相違として軽い興味を持ってこれを見ている。舞台で裸体を見せる事も、西洋文化の模倣とも感化とも見て差閊《さしつかえ》はないであろう。八十年むかしに日本の政治や学術は突如として西洋化した。それに後《おく》れること殆ど一世紀にして裸体の見世物が戦敗後の世人の興味を引きのばしたのだ。時代と風俗の変遷を観察するほど興味の深いものはない。
[#地から2字上げ]昭和廿四年正月
底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月9日作成
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