止まず雨には風も加《くわわ》りて乾坤《けんこん》いよいよ暗澹たりしが九段を上り半蔵門に至るに及んで空初めて晴る。虹中天に懸り宮溝《きゅうこう》の垂楊《すいよう》油よりも碧し。住み憂き土地にはあれどわれ時折東京をよしと思うは偶然かかる佳景に接する事あるがためなり。
 巴里《パリー》にては夏のさかりに夕立なし。晩春五月の頃麗都の児女豪奢を競ってロンシャンの賽馬《さいば》に赴《おもむ》く時、驟雨|濺来《そそぎきた》って紅囲粉陣更に一段の雑沓を来すさま、巧にゾラが小説ナナの篇中に写し出されたりと記憶す。
 紐育《ニューヨーク》にては稀に夕立ふることあり。盛夏の一夕《いっせき》われハドソン河上の緑蔭を歩みし時驟雨を渡頭《ととう》の船に避けしことあり。
 漢土《かんど》には白雨を詠じたる詩にして人口に膾炙するもの東坡《とうば》が望湖楼酔書を始め唐《とう》韓※[#「にんべん+屋」、第4水準2-1-66]《かんあく》が夏夜雨《かやのあめ》、清《しん》呉錫麒《ごしゃくき》が澄懐園消夏襍詩《ちょうかいゑんしょうかざっし》なぞその類《るい》尠《すくな》からず。彼我風土の光景互に相似たるを知るに足る。
 わが断腸亭|奴僕《ぬぼく》次第に去り園丁来る事また稀なれば、庭樹|徒《いたずら》に繁茂して軒を蔽い苔は階《きざはし》を埋め草は墻《かき》を没す。年々|鳥雀《ちょうじゃく》昆虫の多くなり行くこと気味わるきばかりなり。夕立おそい来《きた》る時窓によって眺むれば、日頃は人をも恐れぬ小禽《ことり》の樹間に逃惑うさまいと興あり。巣立して間もなき子雀蝉とともに家の中《うち》に迷入ること珍らしからず。是れ無聊を慰むる一快事たり。



底本:「日本の名随筆18 夏」作品社
   1984(昭和59)年4月25日第1刷発行
   1999(平成11)年11月20日第20刷発行
底本の親本:「荷風全集 第一四巻」岩波書店
   1963(昭和38)年6月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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