はんもん》せざりしに似たり。泰西《たいせい》文学は古今の別なく全く西洋的にして二千年来の因習を負へるわが現在の生活感情に関係なき事あたかも鵬程《ほうてい》九万里の遠きに異《こと》ならず。
 わが身常に健《すこやか》ならず。寒暑共に苦しみ多し。かつて病褥《びょうじょく》にありてダンヌンチオの著作を読むや紙面に横溢する作家の意気甚だ豪壮なるを感じ、もし余にして彼の如き名篇を出さんとせば、芸術の信念を涵養《かんよう》するに先立ちてまづ猛烈なる精力を作り、暁明《ぎょうめい》駿馬《しゅんめ》に鞭打つて山野を跋渉《ばっしょう》するの意気なくんばあらずと思ひ、続いて厩《うまや》に駿馬を養ふ資力と、走るべき広漠たる平野なからざるべからざる事に心付きたり。これよりしてダンヌンチオの著作は余に取りてあたかも炎天の太陽を望むが如くになりぬ。
 西洋近世の芸術は文学はいふも更なり、絵画彫刻音楽に至るまでまた昔日《せきじつ》の如く広漠たる高遠の理想を云々《うんぬん》せず概念の理論を排してひたすら活《い》ける生命《せいめい》の泉を汲まんとす。信仰の動揺より来《きた》りし厭世《えんせい》懐疑の世は過ぎて、生命の力の発揮する処|爰《ここ》に深甚の歓喜と悲痛を求む。われ元より世界の思想に抗せんと欲するものに非ずといへども、わが現在の生活を以てしては彼《か》のヴェルハアレンの詩に現れしが如き生命の力は時として余りに猛烈荘厳に過ぐるを如何にせん。西洋近代思潮は昔日の如くわれを昂奮刺戟せしむるに先立ちて徒《いたずら》に現在のわれを嫌悪《けんお》せしめ絶望せしむ。われは決して華々《はなばな》しく猛進奮闘する人を忌《い》むに非《あ》らず。われは唯|自《みずか》らおのれを省みて心ならずも暗く淋しき日を送りつつしかも騒《さわが》し気《げ》に嘆《なげ》かず憤《いきどお》らず悠々として天分に安んぜんとする支那の隠者の如きを崇拝すといふのみ。ここにおいて江戸時代とまた支那の文学美術とは無限の慰安を感ぜしむるに至れり。これらの事われ既に幾度《いくたび》かわが浮世絵論の中《うち》に述ぶる所ありき。
 我は今、わが体質とわが境遇とわが感情とに最も親密なるべき芸術を求めんとしつつあり。現代日本の政治並びに社会一般の事象を度外視したる世界に遊ばん事を欲せり。社会の表面に活動せざる無業《むぎょう》の人、または公人《こうじん》としての義務を終《お》へて隠退せる老人等の生活に興味を移さんとす。墻壁《しょうへき》によりて車馬往来の街路と隔離したる庭園の花鳥《かちょう》を見て憂苦の情を忘れんとす。人生は常に二面を有すること天に日月あり時に昼夜あるが如し。活動と進歩の外に静安と休息もまた人生の一面ならずや。われは主張の芸術を捨てて趣味の芸術に赴《おもむ》かんとす。われは現時文壇の趨勢を顧慮せず、国の東西を問はず時の古今《ここん》を論ぜず唯最もわれに近きものを求めてここに安《やすん》ぜんと欲するものなり。伊太利亜未来派の詩人マリネッチが著述は両三年|前《ぜん》われも既にその声名を伝聞《つたえき》きて一読したる事ありき。然れどもその説く所の人生|驀進《ばくしん》の意気余りに豪壮に過ぐるを以てわれは忽ちこれを捨てて顧みざりき。われは戦場に功名の死をなす勇者の覚悟よりも、家《いえ》に残りて孤児を養育する老母と淋しき暖炉の火を焚く老爺《ろうや》の心をば、更に哀れと思へばなり。世を罵《ののし》りて憤死するものよりも、心ならず世に従ひ行くものの胸中に一層の同情なくんばあらず。
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世に立つは苦しかりけり腰屏風《こしびょうぶ》
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まがりなりには折りかがめども
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 われ京伝《きょうでん》が描ける『狂歌五十人一首』の中《うち》に掲げられしこの一首を見しより、始めて狂歌捨てがたしと思へり。
 されど我は人に向つて狂歌を吟ぜよ浮世絵を描け三味線を聴けと主張するものに非らず。われは唯西洋の文芸美術にあらざるもなほ時としてわが情懐《じょうかい》を託するに足るものあるべきを思ひ、故国の文芸中よりわが現在の詩情を動《うごか》し得るものを発見せんと勉《つと》むるのみ。文学者の事業は強《し》ひて文壇一般の風潮と一致する事を要せず。元《もと》これ営利の商業に非らざればなり。一代の流行西洋を迎ふるの時に当り、文学美術もまた師範を西洋に則《のっと》れば世人に喜ばるる事火を見るより明かなり。然れども余はさほどに自由を欲せざるになほ革命を称《とな》へ、さほどに幽玄の空想なきに頻《しきり》に泰西の音楽を説き、さほどに知識の要求を感ぜざるに漫《みだ》りに西洋哲学の新論を主張し、あるひはまたさほどに生命の活力なきに徒《いたずら》に未来派の美術を迎ふるが如き軽挙を恥づ。いはんや無用なる新用
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